月にヒビが入った日

小説の裏話、番外編、日常など

青を食べる。(改変前)+番外編

小暑 温風至る

梅雨が明け、白南風が吹く小暑。夏の風が熱気を孕んできたとはいえ、扇風機はまだ棚の奥で眠る生温いこの時期に、風林高校の美術室では、今日も雑談が絶えなかった。美術部員である林田 陸は、アクリル絵の具を出しながら、秋元先輩の話を聞いていた。どうやら休日に、広島に旅行してきたらしい。溌剌とした声で語られる旅行談は、陸を楽しませていた。陸は、選んだアクリル絵の具を机に並べて、パレットに少量ずつ出す。秋元先輩は、使い終わったアクリルを指で遊びながら、本因坊秀策の記念館に行ったと話した。陸は、因島に一度行ってみたいと思っていたので、先輩の話しに耳を傾けた。熱心に聞く陸の姿勢に気を良くし、秋元先輩は陸の頭をくしゃくしゃと撫でた。
風林高校の美術部は、女子が多く、男子生徒は陸と1個上の先輩の二人だけだった。それ故に、新入部員であり男子生徒でもある陸は、先輩たちから大層可愛がられた。陸には、沢山の姉ができたようで、照れくさくも嬉しかった。
部員がほとんど集まり、賑やかになってきた。時計に視線を送ると、針は5時半を指している。

「あ、そうそう。みんなにお土産を買ってきたんだった。」

秋元先輩が手を叩いて、地べたに置かれた鞄から箱を取り出した。綺麗な包装紙をビリビリと破り、蓋を開けると、中にはもみじ饅頭が整列していた。

「みんなー。お土産買ってきたからとってー。」

秋元先輩はテーブルに箱を置いて声を掛けると、美術室に分散していた部員が集まる。そこで陸は、別室で絵を描いているもう一人の男子生徒を思い出した。

「水木先輩を呼んできた方がいいでしょうか?」

「あー大丈夫。…まぁ一応持っていってくれる?」

いつもハキハキとした口調で話す秋元先輩が、珍しく歯切れの悪い。部員の一人が、もぐもぐと美味しそうにもみじ饅頭を咀嚼している姿が視界の端に写る。

「分かりました。…どの味が良いでしょうか?」

「どれでも良いよ。アイツどうせ食べないだろうし。残り物を適当に見繕って。」

秋元先輩は後ろから別の先輩に呼ばれて、駆けていった。椅子に座って話し込むだす彼女らを邪魔するほど陸は無粋ではない。
困ったなと減っていく箱を見下ろした。


その後、顧問の田中先生が来た。彼女は、美術の先生でもあり、美術室横には少し広めなアトリエがあった。そこには小さいながらもキッチンが設備されていて、その横にまたしても小さく古い冷蔵庫があった。先生は、その冷蔵庫からファミリーサイズのペットボトルのお茶を出して、部員の人数分用意されたグラスに注いだ。先生はいつも部員に飲み物を振る舞うので、美術室には部員たちの専用のグラスが置かれていた。お茶が注がれた水色のグラスの肌にびっしりと露がつく。残ったもみじ饅頭とお茶を手に、陸は廊下を出てすぐ左にある準備室に向かう。

コンコンと二回ノックすると、中から低い声が聞こえた。

ドアを開けると、大量のキャンバスが所狭しに並ぶ小さな長方形の部屋があった。その中心に、水木先輩が椅子に座って絵を描いている。窓際には机が置かれ、花瓶には、青い大きな紫陽花が見事に咲き誇り、活けられている。

水木先輩は真剣な眼差しで、花弁の皺までじっくりと見てから、手元にあるスケッチブックに視線を落とし、鉛筆を走らせる。陸は集中している水木先輩に声を掛けて良いものか躊躇した後、おずおずと声を出した。

「先輩、お茶とお土産のお菓子です。」

「お土産?誰か旅行に行ったの?」

水木先輩は視線をスケッチブックから外さずに、返事をする。器用なことだと陸は感心した。

「はい。秋元先輩が広島に行ったそうです。」

「ふーん。どうせもみじ饅頭とかかな」

興味なさそうに呟いた声に、陸は短く肯定した。

「いいや。お土産は君にあげるよ」

投げやりに言われて、陸は戸惑った。秋元先輩の「どうせ食べない」という言葉を思い出す。秋元先輩の言う通り、水木先輩はお土産を受け取らなかった。しかし、いつまでもグズグズ居るわけにもいかず、グラスを近くの木製の椅子に置いた。
その際に、水木先輩の肩越しに手元が見えて、陸はその紙から視線が外せなくなった。スケッチブックの白い紙の上には、写真のように忠実に再現された紫陽花が、生き生きと咲いていた。モノクロで表現されているのに、鮮やかさを感じるのは何故だろうか。
見事な写生に見惚れた。背後で動かなくなった陸の異変を感じたのか、水木先輩が手を止めて、訝しげに陸を見上げた。不審そうに陸を見る瞳と合い、漸く我に返ると陸は羞恥心に顔を赤らめた。

「す、すみません。凄く素敵だったので。」

「そう。」

「先輩が描く絵は、青がとても豊かに表現されているので、とても好きです。そのせいか、その絵の紫陽花も不思議と青色に見えます。」

動揺して変なことまで口走った陸は、はっと口を手で塞いだ。気持ち悪がられたらどうしよう。尊敬している水木先輩から「きもい」なんて言われた日には、寝込みそうな程落ち込むだろう。痛いほどの沈黙がおり、とうとうその沈黙に絶えきれず、恐る恐る視線を水木先輩へ向ける。
水木先輩は探るような目で、陸を見ていた。その真剣な眼差しに、陸は為す術もなく硬直する。

「…そうか」

そう呟くと、水木先輩は再び視線を紫陽花に向け、何事もなかったかのようにスケッチブックに鉛筆を走らせる。陸はおどおどしながら、ペコリと頭を下げて、そのまま準備室を後にした。

小暑 蓮始めて開く

水木先輩は不思議な人だった。手がける絵は尽く賞を勝ち取り、万人を魅了する絵を事もなさげに作り出す。先生も教える必要がないと言うほど、彼の絵の技術は既に卓越していた。美術の天才と称され、プロは彼の絵に舌を巻く。しかし、水木先輩はまるでふわふわと浮く風船のように掴みどころがなく、自由な人だった。美術部なのに、美術室ではなく、狭く埃っぽい準備室を好む。友人と仲良く談笑していると、急に無表情になって、そのまま何も言わずにどこかへ消える。周りから変人と言われても、どこの吹く風と受け流す。天才故に、変人でもある水木先輩は、美術部員の中で酷く浮いていた。しかし、陸にとって尊敬する先輩である事に変わりなかった。


連の花が咲き始める頃。準備室の窓からひらひらと飛ぶ蝶が見えた。蛹から孵ったばかりのアゲハ蝶の羽はみずみずしく、光を弾いている。
同じ男だからと言う理由で、別室にいる水木先輩に飲み物を届ける役目を押し付けられた。水木先輩の変わった雰囲気が苦手なのか、他の部員は水木先輩と距離を置きたがる。そこに妬みが混じっていることに、陸は気づいていた。水木先輩が避けられるのか、理由を理解できても、陸は水木先輩を避けたいとは思えなかった。あまりに高尚過ぎる水木先輩の画力・美術センスは、陸の中では神に等しく、崇拝する対象であった。神に嫉妬する者はいない。それ故に押し付けられた役目は、快く引き受けた。
そんな陸は、お土産を手に準備室に訪れた。すると、水木先輩は、前と同じくお菓子を受け取らなかった。

先輩の新たな一面を発見した陸は、言わずにおれなかった。

「先輩は好き嫌いが多いんですね。」

目を奪われる程、青い朝顔の花が、窓際の机に置かれている。水木先輩は朝顔をじっとみて、手元の紙に鉛筆を走らせた。花壇で綺麗に咲いているのを、無断で摘んできたらしい。園芸部にバレたら、烈火の如く怒られそうだ。

「そう?」

「はい。俺は何でも食べれるんで、先輩の好き嫌いの多さに驚きました。」

陸は、最近定位置になりつつある古びた椅子に座り、持ってきたお土産をもぐもぐと咀嚼した。何度か準備室に通ううちに、こうしてのんびり会話をするほど、打ち解けた。尊敬している先輩が意外に大雑把で、適当な性格だと気づくと、陸は肩の力を抜いて気軽に話すようになったのだ。水木先輩は、そんな陸に気分を害した風もない。もしかしたら、興味がないのかもしれないが、それを考えると落ち込むので深く考えないようにしている。

「ふーん」

水木先輩お得意の興味のない返事を聞きながら、陸は最後の一口を口に運ぶ。水木先輩は考えるように、花ではなく窓の外を見ていた。どれどれと水木先輩の手元を見ると、そこには繊細な線で濃淡を表した朝顔が大きく咲いていた。生き生きしている朝顔の絵に魅入っていると、徐に水木先輩が立ち上がった。水木先輩は、窓際の机に置かれている数輪の朝顔から、一際青い朝顔の花をつまみ上げる。そして、朝顔を手に陸の側まで歩み寄り、すんっと朝顔の香りを嗅ぐ。陸は目を瞬せ、水木先輩を見上げた。
水木先輩はいつものように、怠そうな顔をしながら、陸の前に紫陽花を突き出した。陸は水木先輩の奇行に戸惑い、目の前に差し出された朝顔と水木先輩を交互に見る。

「これ食べて。」

「…え」

陸は自分の耳を疑った。

食用の花なるものが存在していると陸は知っていたが、朝顔が果たして食用花なのか分からなかった。毒があるかもしれない。仮に毒がなくても、花を口にする事に抵抗を覚える。

当惑する陸を、突き出された青が恨めしそうに見た。
その青い花を見て、過去の思い出が刺激される。
まだ幼い頃、何でも食べられると言い張った友人がいた。その友人は家の砂を食べたと言っていた。そこで、陸は「何でも食べられるなら、この花食べろ」といい、足元のオオイヌノフグリを指す。友人は戸惑いながらも、自分の言葉を証明すべく、勇気を出してその花を食べた。
その記憶と今現在置かれている状況は、陸の立場が違えど酷似していた。巡り巡って自分の昔言った言葉が、自分に返ってきた。因果応報というヤツだろうか。
水木先輩の言葉に硬直する陸を、彼は表情の読めない目で見下ろす。その目があの頃の自分と重なる。
一向に動かない陸に痺れを切らしたのか、水木先輩は花弁をちぎる。一口サイズに千切られた花弁を陸の口に差し出した。

「何でも食べれるんでしょ?」

それさえも、陸が戸惑う友人の背中を押すように掛けた言葉だ。青い花が陸を責めるように見ている。他人に強制したくせに、自分は食べないのは卑怯だと。陸は、恐る恐るその友人のように従順に動いた。
差し出された花弁を口に含み、咀嚼する。
みずみずしい花弁は舌触りが良く、甘く、青臭い香りが口に広がった。コクンと飲み込むと、水木先輩は目を細める。

「いい子」

よしよしと子供のように頭を撫でられ、甘美な心地よさが頭から全身へ駆け巡った。その瞬間、食べて良かったなどと思えた自分の単純さ。ふと、水木先輩の手の中にある朝顔に気づいた。千切られた朝顔はくったりと彼の手の中に収まっていた。その花はもう、陸を見てはいなかった。


朝顔を食べたあの一件以来、陸と水木先輩の間に変化は無かった。
あの一件の翌日、ぎこちなくお茶を運ぶと、水木先輩が全く変わらぬ態度で接してきたためである。水木先輩の変わらぬ態度に、陸は「もしかして、俺は白昼夢でも見たんじゃないだろうか」と首を捻らせた。陸は水木先輩態度につられ、何事もなかったかのように日々を送っていた。

小暑 鷹乃学を習う

ハチクマが空を飛ぶ小暑の末候。丑の日が今週に迫っていた。先生が奮発して土用餅を差し入れしてくれた。先生の太っ腹さに感服する。小豆餡に包まれたお餅は表面が滑らかで、まんまるとしていた。女子はかなり喜んで、先生に愛を誓った者までいる。女の子は総じて甘い物が好きな生き物なのだ。調子のいい生徒に、先生は「感謝するなら、コンクールで最優秀賞を取って欲しい」と軽口を言った。
陸も甘い物が好きで、洋菓子のように甘ったるいお菓子も好きだが、控えめで程よい上品な甘さの和菓子も好きだ。美術室でお茶を飲みながら、土用餅を食べ終わると、先生からすまなそうな顔で「悪いけど、水木くんに持っていってくれるかな」と切り出された。先生ですら、近寄りがたく思っている水木先輩の存在の異質さに驚きつつ、陸は頷いた。もとよりそのつもりである。

お茶と土用餅を手に、準備室に入ると、水木先輩が珍しく水彩絵の具を出し、筆を手にとっていた。
水木先輩は、真剣な面立ちで、人が来たというのに筆を操る事に集中している。その姿は、最初と変わらない。その横顔の真剣さや、熱心さは何も変わらない。変わったとすれば、戸惑わずに声を掛けられるようになった陸の方である。

「先輩。お茶とお菓子を持ってきました。」

「…なんのお菓子?」

水木先輩は顔を上げずに淡々と聞く。

「土用餅です。今週末、丑の日なので先生が奮発したそうです」

「…いらない。」

案の定断ったので、陸は肩を竦めて、水木先輩の近くの椅子にお茶を置く。その時に、水木先輩の手元を覗いた。この過程は、毎度繰り返すうちに、呼吸と同じくらい陸の体に染み付いていた。
絵には、両翼を広げたハチクマが大空を悠然と飛ぶ姿が描かれていた。固い羽毛に覆われた両翼が繊細な筆使いで表現されている。その勇ましい両翼の横縞が細かく描き込まれ、美しい。風に靡く羽は流れるよう。圧巻するのは、絶妙な青の絵の具の使い方。青で影や濃淡を表しているにも関わらず、現実のハチクマよりもハチクマらしさを感じさせる。愛好家たちの理想を詰め合わせたような、ハチクマの雄々しい姿がそこにあった。このハチクマは、強風に煽られ、広大な海を渡っている最中なのだろう。その光景が陸の頭にはっきりと浮かぶ。今にも動き出しそうなハチクマに目を奪われた。

ふと、水木先輩の青い絵の具が付着している指に視線が寄せられる。人差し指の第一関節だ。何かの拍子に筆先を掠めたのだろう。陸もよくやる。

水木先輩は陸の視線に気づき、顔を上げた。そして、陸の目線が絵ではなく、水木先輩の指に注がれているのだと気づくと、机に筆を置いた。そして、絵の具が付着した指を陸の前に差し出して、揶揄混じりの微笑を浮かべた。初めて見る表情に陸は瞠目する。陸の知っている水木先輩の表情は、面倒くさそうな顔と、真剣な顔、その2つに属さない無表情な顔だった。揶揄の色が滲む微笑は、水木先輩を年齢相応に見せた。

「…舐める?」

そう問われた。陸は困惑ながら、窺うように水木先輩を見る。座っている水木先輩の目からは、何の表情も読み取れなかった。ただ、陸を面白がるように、唇を歪めている。前回、準備室で朝顔を食べた事を思い出す。恨めしそうに見つめる朝顔が頭にちらついた。しかし、今回は陸に選択権がある。断ろうと思えば断れる。
なのに、何故だろう。どこか、甘く命令するような響きのある水木先輩の言葉に逆らえない。逃げても、追いかけられて、捕らえられて、目を隠される。
躊躇する陸を見つめる水木先輩の視線に、クラリときた。逆らえない、めまいがする。

震える唇を、その細長い指に近づけて、ちろりと舌を出して青い絵の具を舐めた。ザラリとした指の感触。絵の具の味は甘くもないはずなのに、舌が痺れるほど甘く感じる。ちろちろと犬のように舐める陸は、ふと視線を上げた。いつの間にか微笑を消して、能面のような表情で見つめる水木先輩が陸を見下ろしている。その視線に、顔に熱が集まる。自分が酷くいたたまれない存在だと感じた。舐め終わり、唇を離そうとすると、肩を捕まれ、動きを封じられた。

ぐっと弾力のある唇に、水木先輩の指を押し付けられる。

「吸って」

抑揚のない声音なのに、脳が蕩けそうな程甘く感じる。その言葉に促されるままに、陸は押し付けられた指を口に含み、吸う。水木先輩の指は、甘い絵の具の味がした。吸っていると、抽象的な「もっと」という欲望が湧き出てきて、何がもっとなのか、自分でも分からなかった。

水木先輩は掴んでいた肩を離し、その手で優しく陸の頬を撫でた。ぞくぞくと悪寒に似た快感が背筋に走る。水木先輩がこの間言った「いい子」という言葉が、頭の中をぐるぐると回る。

「もういいよ」

宥めるように言われて、水木先輩の指を口から離す。その際にちゅっという淫猥な音が響き、陸は顔を真赤にさせた。そのまま水木先輩は、陸を解放せずに、ムニムニと親指で陸の唇を触り、弄る。そして、鼻と唇の間に指を伸ばし、トントンと人差し指で突く。

「…俺は、笑うと此処に線ができる子が好き」

水木先輩は、ふっと柔らかい微笑を浮かべた。その表情も初めて見る。どんどん新しい水木先輩の表情を知ってゆく。嬉しい反面、言葉の意図と意味が分からず、複雑な表情で水木先輩を見た。すると、水木先輩は気が済んだのか、手を離して再び筆を手に取る。

陸は、途方に暮れて水木先輩の背中を見るが、水木先輩は陸の視線を歯牙にもかけない。陸は、近くにあった椅子に座り、手に持った土用餅を口に運ぶ。美術室で食べた時には、上品な甘さがしたのに、口に広がるねっとりとした食感だけで、あまり味がしなかった。


とあるお昼休みに、購買へ行こうと教室を出る。ガヤガヤと騒がしい廊下を一人で歩いていると、数人の女子生徒が窓辺に身を寄せて、外を見下ろしていた。陸は、女子生徒の視線を追いかけて、窓の外を見る。そこには、中庭のベンチに腰掛けている二人の生徒の姿があった。思わず立ち止まり、窓に寄り添う。美術部の先輩での水木先輩と見しらぬ女子生徒がいた。水木先輩は変人だけれど、容姿はモデル並に整っているので、下級生から密かな人気を集めている。窓際の女子はその部類だろう。その隣に座っている女子生徒も、水木先輩と並んで引けを取らないほど可愛らしい容姿だ。彼女だろうか。そう考えると、何故かチクチク痛みだす胸に手を当てて、首を傾げた。すると、後ろから声を掛けられた。

「陸―!よっ久し振り!」

肩を叩かれ、振り返る。そこには、陽気な笑顔を浮かべた写真部の澤田がいた。彼は中学からの知り合いで、趣味も合い、時折遊ぶ仲だ。

「何みてんのー?って水木先輩と河内先輩じゃん。あの二人ほんとう美男美女カップルでお似合いだよねー。」

聞いてもいないのにべらべら喋りだす澤田。自分の考えは当たったらしい。その事実に、胸に疼く痛みが増す。

「…何の用?」

少し不機嫌そうに言うが、澤田は陸の態度を気にも止めない。他人の態度を気にしない所は、水木先輩と似ていた。

「そうそう。これ、現像できたから分けようと思ってさ。丁度見かけたんで、声かけたんだ」

差し出された写真を受け取る。陸は訝しげに写真に視線を落とす。そこには、麦わら帽子を被り、野菜の入った籠を抱えて笑っている陸の姿があった。背後は立体的な入道雲と、太陽の光を一身に受けるひまわり畑。夏の香りが漂ってきそうな一枚だ。

その写真を見て、去年の夏に祖母の家に澤田と行き、夏を満喫した過去を思起する。

「あぁ。あの時の…」

澤田は田舎が珍しいようで、熱心に写真ばかりを撮っていた。せっかく二人でいるのに、一人で居るような寂しさを味わった陸は、紛らわすために畑を手伝ったのだ。籠に熟れた野菜を抱え、歩いていると、遠くから澤田が陸の名前を呼んだ。声のした方を向けば、カメラを片手に手を振っている澤田がアホみたいで、「お前、本当に写真好きだよなー」って笑ったのだ。澤田の持ってきた写真はその時に撮られた一枚だろう。

「いい写真だろう?今年のコンクールに出品しようかと考えているんだ」

「はぁ!?この田舎臭い写真を?」

「なんだよ。いいじゃねーか。田舎。恥じる必要はなんもないぜ」

随分な言いぐさである。

「いや、そうだけどよ…」

確認するようにもう一度写真を見る。そこには、アホみたいに笑っている陸がいた。コンクールに出品するなら、このアホ面を大勢の人が目にする訳で、率直に言うと恥ずかしい。写真の中の陸は、未来の陸の複雑な心境を知らずに、呑気に笑っている。

「…ん?」

陸の視線はある一点に気づくと、訝しげに眉を寄せて、それをよく見るために写真に目を近づける。

「どうした?なんか変なもんでも写っているか?大丈夫。加工してやるよ。」

心霊写真とかでも加工できるんだぜ、と得意げに笑う澤田を無視して、陸は神妙な顔つきになる。

「…なぁ澤田。俺って笑うと此処に線ができるのか?」

人中を指で指しながら陸は澤田に聞いた。澤田は、考え込むように首を傾げ、記憶の糸を辿る。

「…たしかに、陸って笑うと鼻と唇の間に横線ができるな…言われるまで気づかなかった。」

陸は、もう一度写真の中で笑っている自分に視線を落とす。そこには、澤田の言った通り、人中に横線が入っている陸の笑顔があった。

「そうだよなぁ」

「なに?どうしたの?」

水木先輩が言っていた「笑うと此処に線が入る子が好き」という言葉を思い出した。そして、陸は笑うと人中に横線ができる。その好きな子というのが、恋愛対象として見ているのか否か。そこまで陸の考えは及ばなかった。陸はただ水木先輩の好きな子に入るという事実だけを噛み締め、陸は舞い上がりそうな程の嬉しさに笑顔を浮かべた。

満面の笑みを浮かべる陸を、澤田は不審そうに見る。


その日の放課後、陸は美術室に向かった。陸は大抵一番に美術室に到着する。到着したばかりの美術室は、空気が籠もっていて、薄暗い。壁際のスイッチに手を伸ばし電気を付けて、その後鞄を床に置くと、窓を開けて籠もった空気を入れ替える。
新鮮な空気が美術室に入り込み、少し冷えた心地の良い風が陸の頬を撫でた。全ての窓を開けると、準備室に向かって、カーテンと窓を開く。窓を開けると、間が悪く強風が吹き、机に乗ったスケッチブックが音を立てて捲れる。スケッチブックを閉じようと手を掛け、そこに描かれていた絵に案の定目を奪われた。毎度のことながら見入る。気がつくと、閉じようとしていた手が勝手にページを捲った。
持ち主がいない間に、無断でスケッチブックの中身を見ることは、誰もが嫌がる行為だ。頭では分かっていても、もっとその絵を見たいという欲望には勝てなかった。
一枚一枚味わうようにページを捲る。

「…なにしてんの。」

突如響いた淡々とした声に、陸はその場から飛び上がった。肩越しに視線を向けると、いつの間にか音もなく水木先輩が立っていた。顔を青くして、あわあわと慌てる。

「ごごめんなさい。風でページが捲れたから、閉じようとしたんですけれど、つい…その、中身が見えて、とっても上手かったんでつい、その…他のページもみたいなぁって」

言葉の後半になると尻すぼみになり、弱々しい声音で言い訳をする。水木先輩はチラリとスケッチブックを見てから、陸に視線を戻す。

「別に見たいなら見て良いよ。」

「え!?本当ですか!?」

「減るものじゃないから」

水木先輩は平然と鞄を下ろして、いつもの椅子に腰掛ける。陸はこれ幸いと、時間を惜しむようにスケッチブックをめくった。途中で、気分屋の先輩に「やっぱり返せ」と言われる可能性があるのだ。先輩の気が変わらぬうちに、全てに目を通したかったのだ。真剣な顔でページを捲る陸の姿を水木先輩は面白そうに目を細める。

「そんなに見たかったの?」

陸のページを捲る手が止まった。

「そりゃそうですよ。先輩の絵ですから。」

しれっと照れもせずに言ってのける陸に、水木先輩は目を瞬かせる。しかし、陸は水木先輩の相手をする時間さえ惜しいと言わんばかりに、スケッチブックから目を離さない。いつも水木先輩を見つめておたおたしている陸が、水木先輩よりスケッチブックを優先させた。それが気に食わなかったのか、水木先輩は他の手を使う。

「…俺の家にスケッチブックなんて山程あるけどね」

「え!?本当ですか!?」

陸は、顔を上げて宝の山を発見した海賊のように目を光らせた。その瞳に水木先輩は苦笑する。

「うん。…見に来る?」

「…え!?これは現実ですか?…嘘じゃないすよね?言質は取りましたよ。」

嬉しすぎて混乱している陸の姿を、水木先輩は呆れ混じりの微笑を浮かべる。先輩は最近よく、微笑を浮かべる。その微笑を見る度に陸は嬉しくなる。

「そうだな。今週の土曜とかどう?」

「今週の土曜ですかっ。ばっちり空いてます」

「なら、11時に☓☓駅に来て。」

「はいっ」

背後で見えない尻尾が左右にブンブン揺れている様が、水木先輩には見え、微笑を浮かべた。すると、二人の和やかな雰囲気を壊すように、準備室のドアが開く。

二人は入り口に一斉に視線を向けた。

「あ…蒼くん。ここにいたんだ。」

そこにいたのは昼休み、中庭にいた河内先輩だった。可愛らしい顔を赤く染めながら入ってきた河内先輩は、人形のように小さく、可憐だった。世の男が誰しも一度は付き合いたいと思うに違いない。

「なに?河内」

「これ、机の上に忘れていたよ。」

そういって差し出したのは宿題のプリントだった。水木先輩は「ありがとう」と礼を言い、プリントを受け取る。すると、河内先輩は花が咲くような笑顔を浮かべた。河内先輩は笑うと人中に横線ができていた。それに気づいた陸は、舞い上がった気分がジェットコースターのように急降下した。

陸は、二人の和やかな雰囲気にいたたまれない気持ちになり、顔を俯かせて、準備室を出た。その日は、飲み物を運ぶ事が億劫で、他の後輩に行ってもらった。


その週の土曜日に、陸は水木先輩の自宅を訪れていた。

「お、お邪魔します。」

緊張気味に声を上げるが、返事がない。すると、靴を脱いでいた水木先輩が「今日は誰も居ない」と答える。

水木先輩の後を追いかけ、二階に上がる。水木先輩の部屋は簡素だった。ベッドに勉強机、本棚などが置かれ、不要なものは一切ない。しかし、置かれている家具は一目で高級品だとわかるほど、上質だった。

「飲み物取ってくる」

水木先輩が部屋を後にして、一人寂しく取り残された陸は、落ち着かない視線で部屋を見渡す。壁際に置かれたベッドは、綺麗な青色だ。本棚を見ると、学校の参考書や医学書、経済の本が置かれて、美術の本は一切なかった。一体何を参考に勉強して、あそこまで上手くなるのだろうか。謎が深まるばかりである。
部屋は水木先輩の匂いに満ちていて、まるで水木先輩に抱きしめられているかのような錯覚に陥る。その考えに体温が数度上がり、誤魔化すようにパタパタと手で仰いでいると、水木先輩が帰ってきた。手には、ソーダが入ったグラスを2つ程もっている。中心のローテーブルにグラスを置きながら、水木先輩はチラリと陸を一瞥する。

「暑い?」

「い、いえ。」

準備室以外の場所で、水木先輩のこうして話すのは初めてだった。それが、まさか水木先輩の自室上がる事になろうとは、夢にも思わなかった。緊張で、肩が上がっている陸を見て、水木先輩は目元を和ませる。そして、机に設置されている棚からスケッチブックを数冊取り出して、陸の前に差し出した。

「はい、これ昔のスケッチブック」

「あっありがとうございます。」

緊張を忘れ、スケッチブックに飛びついた。そのうち一冊を取り出して、胸を高鳴らせて、表紙を開く。そこには、数年前に描いた静物画があった。その頃から既に水木先輩の画力はプロ級だ。天才は生まれながらに天才である人と努力して天才並に力をつける人がいるが、きっと水木先輩は前者だろう。美術の参考書なしに、描きまくって今の画力になったに違いない。

「先輩は、将来プロになるんですか?」

陸は、思わずその質問を口にする。水木先輩は途端に顔を顰め、苛立ったように陸を見る。睨まれるのは初めてで、陸は硬直した。水木先輩は勉強机の椅子に深く腰を下ろして、軽く舌打ちをする。

「絵がそこそこ上手ければ、誰も彼もプロになるのが当り前なの?趣味で描いてたら悪い?俺はそんなに絵に熱意を注げない。あくまで趣味程度で描いているから。」

苛立ちを押し殺した声音は、身震いするほど怖かった。いつも怒りとは無縁な水木先輩の逆鱗に触れたようだ。
水木先輩の言葉に、先日の美術室で先生が水木先輩に芸術大学を勧めていた光景を思い出す。必死に説得しようとしている先生に対して、水木先輩はイライラしながらその言葉を聞いていた。顔には一刻も早くその場を去りたいという願望が現れていた。
水木先輩に将来の話を振った事が原因だと考え、陸は戸惑いながら、謝る。

「すみません。…なら、SNSかメアド教えていただけませんか?」

「は?」

陸の言葉に、水木先輩は眉を顰め、「なにいってんだコイツ」という目で陸を見た。しかし、陸はそんな視線にもめげなかった。何よりもこの機を逃したらチャンスは来ないかもしれない。

「えっとですね。プロの方なら、HPとかで、展覧会などの告知をしたりしますね。ファンはネットなどでその人の情報を追って、展覧会へ行けば難なく絵を見れます。でも、一般の人だと難しいですよね…だから絵を公開するSNSがあったら教えてほしいです。SNSをしていなかったら、メアドを交換してもらって、気が向いた時に描いた絵などを送ってくださると嬉しい…です。趣味で絵を描いているなら、これからだって描くんですよね?…それを見れないのは凄く残念なので、…俺の存亡の危機です…情報共有手段を今の段階で得れば、先輩が卒業しても絵が見れますし、俺は凄く幸せです。」

必死にSNSやメアドの情報開示にメリットがあるように言い募り、上手いこと情報をゲットしようと躍起になった。だが、すべて言い終わった後に「これって俺にしかメリットなくない?」と盲点に気づき、顔を青くする。
「だが、この機を逃すと先輩の絵が一生見れなくなりそう…それは不味い…でも、先輩が俺に情報開示するメリットってある?」などと、考えが口からダダ漏れであることに気づけない程、陸は必死だった。

その独り言すらもしっかり聞いていた水木先輩は、呆気にとられ、肩の力が自然と抜けていくのを感じていた。

「…つまり俺がプロにならなくても、俺の絵を見れればそれでいいって事?」

「その通りです。」

陸は事もなさげに頷いた。水木先輩は陸の真っ直ぐな目を見て、自嘲混じりの柔らかい笑顔を浮かべた。「アホだなぁ」とその笑顔が言っている気がしたのは気の所為だろうか。陸は、水木先輩の表情と雰囲気が漸く何時も通りに戻ったのを見て、安堵の息を吐く。

「そう…分かった。SNSはしていないからメアド交換しようか。」

「やった!」

ガッツポーズをして喜ぶ陸に、水木先輩はなんとも言い難い柔らかな表情を浮かべる。

陸はいそいそと鞄からケータイを取り出して、晴れて水木先輩のメアドをゲットする。電話帳に水木先輩の名があることに嬉しさを感じ、ヘラリと嬉しそうな笑顔を浮かべた。その弛緩しきったアホ面に水木先輩は呆れ顔を浮かべる。

大暑 桐始めて花を結ぶ

桐が梢高く、淡い紫色の花を咲かせる頃。漸く学期末試験のテストが全て返却された。陸は学年の真ん中辺りの成績を常に漂っているので、返されたテストの成績も可もなく不可もない。平均点数より数点上だったり下だったりする程度だ。テスト返却後、全校集会が体育館で行われた。
窓を全開にし、扇風機を隅に数台設置しているはずなのに、全く涼しくならない。空気に汗の匂いが滲み、制汗剤や女子の柔軟剤が混じり、なんとも言い難い匂いが体育館に充満している。
校長の長い話や、生徒指導部の毎度ながら聞き飽きた夏休みの注意や心構えを聞きながら、陸は額に滲む汗を拭う。

全てが漸く終わった頃に、今回は一年から退場だった。全学年の生徒が一斉に教室に向かうと混み合うので、学年ごとに退場するのが常だった。一年が退場した後二年、三年と続く。陸は体育館近くにあるトイレに寄り、遅れてクラスに戻る。廊下を歩いていると、二年生の軍団が反対側から歩いてきている姿が見えた。

最初に気づいたのは、水木先輩の方だった。陸は視線に気づいて顔を上げると、丁度水木先輩の姿が見えて、顔をぱぁっと明るくする。

(準備室以外で先輩を見つけた)

声を掛けたかったが、邪魔だろうと思い、口を噤む。水木先輩は無表情でクスリともせず、陸を見ていた。あまりにも熱心に見るので、横に居た水木先輩の友人が「どうした?」と声を掛けた。その言葉に「なんでもない」と先輩が返した。
すれ違う時に、先輩側の体の側面が熱くなった。理由は分からない。その熱が陸の体に深く根付き、陸は冷めない熱を孕む二の腕をひっそりと擦った。きっとこれは良くない傾向で、良くない感情ではないだろうか。そんな事を漠然と思った。


夏休みに入った。
部活は学校課外が無い日は10時から、課外がある日は1時から始まる。だが、ほとんどの美術部員が時間にルーズだった。時間をきっちり守る陸は、毎度のことながら美術室に一番乗りだ。

つい最近引っ張り出された扇風機が、美術室の両端に二台置いてある。美術室にエアコンなどという贅沢品は無かった。古い扇風機の強風ボタンを押して、窓を開けると、涼しい風が教室に流れ込む。

扇風機の稼働音を聞きながら、眩しい空を見上げ、夏の匂いを感じる。電気は暑くなるから点けない。薄暗い美術室は、青い影を落としていた。

窓際から体を離し、壁に立てかけられているキャンバスを机に置く。美術の授業が無い夏休み期間だけは、描きかけのキャンバスを準備室ではなく美術室の壁に数枚重ねることを許されている。理由は単純で、授業の邪魔になるからだ。

陸がコンクールに向けて描いている絵が、どこか恨めしそうに陸を見つめる。近所の町並みをキャンバス一杯に描き、色とりどりの花が町の隙間を埋めるように描かれている。その町並みを海に沈めて、気泡を描き、更に魚を町に泳がせている。そして、斜めに横断する道路には、朽ちた鯨の骨が横たわっていた。

一体何を表現したいのか分からない。

「好きなの物を詰め合わせたら、こうなりました」というような絵だった。青を基調にしたこの絵は、明らかに水木先輩の影響を受けている。水木先輩の影を追って出来上がりつつある絵は、水木先輩への憧憬を表しているようで、見ていて恥ずかしい。自分で描いたはずの絵が自分の手から離れ、まがい物のようだった。

ため息を吐き、キャンバスを撫でていると、美術室のドアが開く音が響いた。視線を向けると、そこには顧問の先生がいた。

「林田くん、早いね。」

先生がにこやかに笑いながら、近づいてくる。真面目な生徒の陸を見て、先生は気を良くしたようだ。先生の指示通りに絵の具とパレットを準備して、机に並べる。先生は陸が持ってきた筆を取り、サラサラと迷いのない手付きで魚の絵を描く。陸が細々と描いていた魚より大きく、顎が出た魚だ。インパクトがあり、細かい魚の絵だけではダメなんだと自覚する。そして、いくつかアドバイスを陸に与えた。その過程で、与太話をする。

「そう言えばね、プールの壁画があるでしょ?」

「あぁ、あの壁画のことですか。」

校舎横にある学校のプールの壁画が脳裏に浮かぶ。何が描かれていたのか、今では想像もつかないほど色が薄く、下の白い壁が見えていた。いっそ洗ったほうが綺麗だろうと、プール掃除の時に思ったものだ。

「ずいぶん前に書かれた壁画だから雨や風で色落ちしてて、せっかくだから美術部にリメイクして貰おうって話が出たのよ」

「そうなんですか。…三年生は忙しいから悔しがりそうですね。」

大学受験に向けて、予備校に通っている三年生の先輩を思い浮かべて、陸は残念そうに言った。秋元先輩は三年生で、今年の秋のコンクールを最後に、引退する。寂寥の念が胸を突いた。

「そうね。…でも、参加できる日だけでもいいから、参加してほしいわねぇ。」

最後の思い出作りに。

先生のその言葉が耳に残った。


先生から壁画の話を聞いて、数日後。陸たち美術部員はプールの壁画の前に立っていた。壁画のリメイクの話がまとまったのだ。できれば、短い夏休みの間に終わらせたい、そして、三年生も参加したいという思いで、壁画プロジェクトは秋元先輩の手腕により、あっという間にまとまり実現した。壁画デザインは、秋元先輩が急ピッチで作って、田中先生のアドバイスで、より良いものになった。照りつける太陽の日は容赦なく、プールサイドをジリジリと熱している。叫ぶように鳴く蝉の声が響き渡り、遠くのグラウンドから高々と金属バットでボールを打つ音が聞こえた。

「よっし。じゃあやるよーっ」

タオルを首に巻いた秋元先輩は、元気よく腕まくりをして、部員に指示する。下絵担当の生徒が率先して、壁に張り付き、鉛筆で線を描く。デッサン用の濃い鉛筆は、壁のボコボコした凹凸につっかえながらも、はっきりと弧を描く。

三年生は、用事で来られない人もいたが、比較的集まった方である。午後から来る部員も居た。反対に午後から抜ける部員も居た。水木先輩の姿がなかった。秋元先輩も水木先輩を気にしているようだった。後から準備室に行こう。

陸は、出来上がった下絵の線をネームペンでなぞる。日光の鋭い日差しに肌を焼き、先輩たちはしきりに日焼け止めを塗った。途中、秋元先輩が「日焼けすると痛くなるよ」と言い、陸の手に日焼け止めを分けてくれた。みずみずしい匂いのする白い液体は、よく肌に馴染んだ。

十二時半頃になると、一旦日陰に道具を引き上げて、エアコンが効いた涼しい空き教室で御飯を食べる。陸が、コンビニで購入したピザパンとメロンパンを食べていると、先輩たちからおかずをお裾分けして貰った。秋元先輩曰く「育ち盛りの健全な男子生徒がそんなに食細かったら、危ない」らしい。こうして、夏休みの間は毎回部員におかずを貰っていた。陸は、パン二個でもお腹いっぱいになるが、先輩たちの好意を有り難く受け取った。

それらを全て食べ終わると、先輩たちはお菓子を広げて駄弁っていた。それを尻目に、陸は美術準備室に向かう。渡り廊下を渡り、二階の階段を登る。準備室の木製のドアを二回ノックすると、中から了承の声が聞こえた。
陸はドアを開けて中に入る。

「先輩、壁画作成に来ないんですか?」

水木先輩はいつものように、机に置かれた花を写生している。今日は、どこからか手折ってきた桐の梢だ。

「面倒だしね」

「…三年生と一緒の共同作業は多分これで最後ですよ…」

「そうだろうね」

淡々とした口調で、何でもないことのように先輩は言った。陸は、顔を暗くして、どうすれば水木先輩が壁画作成に協力してくれるのか考える。

その時、風が一際強く吹込んできて、花瓶に活けられた桐の梢が揺れた。花弁を散らし、不安定にぐらいた桐は、風に押されるように倒れた。花瓶から水が溢れ、桐の花を濡らす。花瓶は机の端へ転がり、床に落ちかけた。陸が慌てて、花瓶を受け止めようと駆け寄るのと、水木先輩が花瓶を受け取ろうと腰を浮かせたのは同時だった。水木先輩の肩がぶつかり、陸は花瓶から横にいる先輩へ視線を移した。水木先輩の黒曜石のような瞳と視線がぶつかり、呼吸を忘れる。

バリンっ

乾いた音が静かな準備室に響き渡った。視線を音のした方へ向けると、花瓶は床に叩きつけられ、無残な欠片の姿になっていた。高鳴る鼓動を抑え、その欠片を手で触れると、無意識に力が入り、欠片で手を切る。

「…っ」

痛みに顔を歪めて、痛みが走った指を見る。赤い切れ目から、血がぷっくり盛り上がっていた。

「怪我したの…ドジだね」

背後から甘く貶され、水木先輩の手が伸びてきた。手首を絡め取られる。そのまま流れるように、怪我した指をパクっと咥えられて、陸は驚愕に目を見開いた。熱い舌が、ピリピリと痛む傷口をなぞり、ちぅっと音を立てて吸い上げられた。まるで全神経がその指に通っているみたいに、先輩の舌や唇の動きに体が反応して、全ての意識が奪われる。心臓が口から出そうなほど、早鐘を打ち、痛みさえ生じる。痺れるような甘い痛みが、指から全身へと巡り、体温が数度上がった。全身にびっしょり汗をかく。この反応が良くない方向へ向かっているのだと、陸は漠然と考え、恐れていた。この感情はまだ名前がない。しかし、いつか名前がつくだろう。その日が訪れることを本能的に恐怖する。

ちゅっとリップ音と共に、熱が離れた。安堵するような、名残惜しいような複雑な気持ちを抱いた。

「…お前、なんか付けてる?」

水木先輩が責めるように陸の瞳をじっと見ながら、そう言った。一瞬なんのことか、分からず首を傾げた。直ぐに、心当たりを思い出し、口を開く。

「秋元先輩から日焼け止めを貰ったんです。」

「…なるほど。」

自分で聞いたくせに、水木先輩は興味なさそうに呟いて、床に散らばった欠片を集める。陸も手伝おうと手を伸ばしたが、欠片に触れる前に、手を叩かれる。

「お前がやると、逆に手間取る。」

不機嫌そうに言われて、陸はしょんぼり落ち込んだ。もし陸に耳と尻尾があるならば、ペタリと垂れているに違いない。
欠片を集める水木先輩の背中を見ながら、陸は先程の事を思い出していた。
なぜ、水木先輩は陸の指を咥えたのか。古代の療法で、傷口には唾をつれば治ると言われている。その言葉に則り、実行したのだろうか。
しかし、一介の後輩に過ぎない陸の指を舐める事にいささか疑問を抱く。女子ならまだしも男子の指を咥えること、抵抗を感じないはずはないと、自分の事は棚に上げ、そう思った。陸は先程味わった先輩の舌や口内の感触を思い出して、顔を真赤にさせた。また、心臓が痛いほど高鳴る。思い出すだけでも心臓に悪い。陸はそれ以上思い出さないように、頭を振って感触を外へ追いやった。

陸が独りで頭を悩ませている間に、水木先輩は壊れた花瓶を片付け、濡れた机を雑巾で拭き取り、窓から桐の梢を捨てた。下は人通りの少ない地面なので、枯れて土に返るだけだ。背後を振り返ると頭を振っている陸がいて、水木先輩は若干顔を引き攣らせた。

「何やっているの?行くよ」

「…え」

頭を振るのを止めて、陸はいつの間にかドアの側に立っている水木先輩を見上げる。目を瞬かせて、水木先輩の真意を図ろうとしたが、仮面を被ったような表情の水木先輩から何も分からなかった。

「どこに行くんですか?」

「プールだよ」

「え、先輩が壁画作成に参加するんですか!?」

「お前がそうしろって言ったんじゃないか。もう忘れたの?」

水木先輩が呆れながら、「バカだな」という目で陸を見た。しかし、陸は全く気にならなかった。それよりも急に先輩が壁画作成に参加すると言い出したことで大いに喜んだ。
陸は飛び上がるように立ち上がり、水木先輩の気が変わらぬうちに、さっさと現地へ行こうと水木先輩の背中を押して、準備室を後にした。

陸と水木先輩がプールサイドに着くと、他の部員はすでに壁画の前にいて作業をしている。彼女らは水木先輩に気づくと、美術部の主に三年生が、幽霊でも見たように驚愕する。水木先輩は特に気にする事もなく、スタスタと壁画に近づいて、部長である秋元先輩の指示を仰いだ。秋元先輩は驚きつつも冷静に指示を出す。
水木先輩は、指示通りに地面に落ちた鉛筆を持ち、デザインの紙をじっくりと見てから、迷いなくその手を動かした。さっさっと勢いよく線を描いていく。

陸も秋元先輩に近づく。

「何かやることないですか?」

「そうね、なら此処と此処をまたネームペンでなぞってくれる?」

「はい。」

「…陸くん。」

名を呼ばれて、足を止めた。振り返ると優しい顔をした秋元先輩がいる。

「呼んできてくれてありがとう。」

「いいえ。」

陸もにっこりと笑う。すると、秋元先輩が陸から視線を外し、横を一旦見て苦笑した。

「あまり陸くんと仲良くすると、怒るかな。」

「え、どういう意味ですか?」

「ううん。なんでもない。」

秋元先輩が笑って誤魔化すが、陸は釈然としない気持ちになる。先程、秋元先輩が視線を向けた場所を見ると、そこには水木先輩がいて、壁に向き合って、腕をせっせと動かしている。目を引くものは何もなく、首を傾げた。陸は、秋元先輩の指示に従うべく壁に向かって歩きだす。

大暑 土潤いて溽し暑し

線画ができたのはそれから一週間後のことだった。水木先輩は来たり来なかったり、まちまちだった。陽の光の強さが益々増す溽暑の頃に漸く一段階ついたのだ。
線画が完成すると、その上からペンキで塗って色を付ける工程に入る。ペンキは制服に付着するとなかなか落ちないので、部員は汚れても良いような服装でプールサイドに集合する事になった。
陸は、課外が終わると、昼ごはんを食べて、使い古された白いワンポイントの半袖と中学校の頃使っていた短パンに着替えた。それから、美術室へ向かい、昨日部員で準備したペンキをプースサイドへ運んだ。ペンキの数は原色の青と赤と黄。主にアクリルや水彩、そして油絵しか使わない美術部に、ペンキの色は必要最低限しか残っていなかった。しかも、量が少ない。体育祭の装飾で使うペンキを借りられるか、先生に駆け寄ったが、結果は芳しくなかった。学校からペンキの借用を諦め、原色の三色もあればなんとかなると判断した。それらを混ぜて色を作る予定だ。もし、量が足りなかったりしたら、部費で買い足せばいい話だ。
全て運び終わる頃に、部員たちが全員集まった。秋元先輩が不在なので、副部長の岸田先輩が指揮をとる。
必要な色を作り終えると、刷毛を持って壁に張り付いた。線画を埋めるように色を塗っていく。むわっと熱気がまとわりつく蒸し暑いプールサイドで、度々休憩を挟みながら、作業は順調に進んだ。

陸が日陰で休んでいる時に、重役出勤で水木先輩がプールサイドに姿を表した。岸田先輩は神経質そうに眼鏡を指で上げて、水木先輩に指示を出す。その際に、小言も忘れていない。
水木先輩は適当に頷いて、岸田先輩がまだ話している最中に、面倒くさそうな足取りで壁に近づく。床に落ちていた刷毛を拾うと、陸の視線に気づき、水木先輩がチラリと陸の方へ向く。目が合った事に心が浮き立つほど嬉しくなり、陸はへらっと締まりきらない笑顔を浮かべる。水木先輩は、呆れた顔で陸を見て、犬を呼ぶように手をちょいちょい動かし「来い」と指示する。忠犬のように陸は腰を上げて、水木先輩に駆け寄る。

駆け寄ってきた陸の頭から足先まで観察してから、手に持っている刷毛を陸に渡した。青い絵の具が既に刷毛先に付いている。

「此処と此処ね」

壁の箇所を指で指しながら水木先輩は言った。それから、陸も胸元にプリントされているダサいマークをちょんっと突いて、「変なマークだね。」と言い、目元を和らげて微笑する。その表情に胸が痛いほど高鳴って、陸は最近困っている。
それから、何事もなかったかのように水木先輩は別の刷毛を持って、壁に手を添える。突かれた胸を押さえながら、陸は水木先輩に倣うように壁に張り付いた。色を塗っているのにちっとも集中できない。陸の神経は全て横にいる水木先輩の方へ注がれていた。青い絵の具で塗りながら、チラリと横目で水木先輩を盗み見る。ちょっと面倒くさそうに立ちながら、手を動かしている水木先輩の姿があった。横顔も整っていてかっこいい。横に立つ先輩を意識しながら、陸は手を動かして、差された箇所を塗った。
指定された箇所を2つとも塗り終わり、先輩を見ると、先輩は大きな箇所を塗っていた。その掌外沿に青いペンキが付着していた。恐らく気づかぬ間に乾いていない壁に接触したのだろう。
青いペンキに濡れた手を見て、準備室での一件を思い出した。
珍しく水彩絵具を出していた先輩の指に付いた青い絵の具と同じ色だ。それを言われるがままに口に含んで、吸ったあの日のことを今でも鮮明に覚えている。夢にまで出てくる始末だ。
思い出しただけなのに、体温が数度上がり、顔が赤くなる。陸の視線に気づいた水木先輩は、自分の手についたペンキを見てニヤリと口を上げて笑った。偶に見る表情だ。よく陸をいじめようとする時に浮かべるので、陸にとっては不幸の前兆である。
他の部員は、作業に集中していたり、雑談していたりで、誰も陸たちを見ていない。笑みを湛えた水木先輩が陸の方に体を寄せて、内緒話をするように耳打ちする。

「…舐めたいの?」

熱い吐息が耳に掛かり、低く掠れた声で甘く問われた。息がかかる程近くにいると、全身で水木先輩の存在を感じられる。水木先輩が常に付けている爽やかな香水が強くなり、包み込まれているかのような錯覚に陥った。陸の体温がぐっと上がって、逆上せそうになる。舐めたいかと聞かれて、すぐに拒否できない自分に驚いた。寧ろ、その言葉に頷いきたいと思った浅はかな自分がいる。そんな自分に戸惑いながらも、物欲しげに水木先輩を見上げた。

「ふふ…流石に此処じゃ不味いし、ペンキは体に悪いからね。」

陸の目線から意図を察した水木先輩は、優しく綺麗な方の手で陸の頭をポンポンと撫でた。離れていく水木先輩の手と体温が惜しいと思った。しかし、体は硬直して動かない。この感情は、日に日に大きくなっている気がする。陸はそれが恐ろしくて、抑えるのに必死だった。いつか、その感情がなくなればいいと強く願うばかりだ。

水木先輩が刷毛を置いて、外へ行こうとすると、岸田先輩に呼び止められる。水木先輩はそれを無視したが、岸田先輩が強引に腕を掴み、立ち止まらせた。岸田先輩は、聞くまでどこまでも付いていくと言わんばかりに、強い視線で水木先輩を見上げた。水木先輩は面倒くさそうな顔をしながら、岸田先輩を見下ろす。

「案の定ペンキが足りない。先生は、会議だから車出せないし、ペンキは意外と重い。そこで、男である君たちに買い出しを頼む。」

岸田先輩は、いつものように慇懃で堅苦しい口調で話す。

「…面倒くさいんだけど。」

「たまには、部活に貢献したらどうだ。」

有無を言わせない岸田先輩の口調に、水木先輩がとうとう折れた。

「…わかったよ…」

諦めて、了承した水木先輩。岸田先輩はそれを聞いて、満足そうに頷いた。それから、狙いを水木先輩から、壁の横に突っ立っている陸へ移し、堂々とした足取りで近づいてくる。彼女の仕草は不思議と陸より男らしさがある。

「陸君。君も買い出しに言ってくれるね?」

「は、はい。」

「君を使うと露里に怒られそうだが、君も男だ。女と比べると筋肉はある方だろう。」

眼鏡を指で上げながら、岸田先輩が言った。露里というのは、秋元先輩の名前だ。秋元先輩と岸田先輩は中学からの同級生らしい。朗らかで明るく人望熱い秋元先輩は、部員の気持ちを尊重する人で、反対に岸田先輩は、規則や合理的な考えを尊重する人だ。正反対な性格の二人はお互いの欠点を補い、長所を伸ばすいいコンビだと陸は思っている。
もしこの場に秋元先輩がいたら、岸田先輩の言葉に表面上は同意しつつ、「本当に大丈夫かな。陸くんはこんなに細い腕だし…」と心配そうに陸を見るに違いない。
陸は、思わず苦笑を浮かべた。

「で、お金は?領収証持ってくればいいの?」

面倒くさそうに近づいてきた水木先輩が聞く。

「ああ。立て替えてくれ。後から部費で返済する。」

「分かった。」

その会話に、陸は不安と心配で心が陰る。陸は今日お金を持ってきていないのだ。だから、お金を立て替える事もできない。
それを言おうと口を開くが、言葉になる前に、水木先輩に腕を掴まれた。

「じゃ」

水木先輩が陸を引っ張るように歩きだした。陸は、後ろを振り返って、物言いたげに岸田先輩を見る。

「程々にな」

岸田先輩は意味深な言葉を吐き、手を振って、陸たちを見送った。


風林高校からまっすぐ伸びる一本道を辿ると繁華街に出る。繁華街の南に位置する細い道に、小さな画材店があった。そこに陸たちは足を運んだ。

ペンキは原色をそれぞれ2つずつ購入した。会計の際に陸は申し訳なさそうに「今日お金持ってきていません。」と白状する。水木先輩は、とくに気にした風もなく、「そう」と軽く流して、ポケットから財布を出して会計を済ませた。陸は、罪悪感と己の情けなさに体を縮こませる。

総計六個のペンキは円柱形の缶に入っていて、持ち運びしやすいように、取っ手が付いている。陸が三個持とうとしたら、横から水木先輩がペンキを掻っ攫う。三個持つと意思表示をするが、「そんなヒョロヒョロな腕で持てるはず無いでしょ。怪我して余計な時間とりそうだから、これは予防」と言った。酷いい草である。陸は頬をぷくぅっと膨らませ、精一杯の怒りを表した。すると、水木先輩は目元を和ませるだけでまるで効果ない。結局、水木先輩がペンキを四個持って、画材店を出た。

繁華街は風通しが悪く、蒸暑さに拍車がかかる。待ちゆく人も暑そうに汗を手で拭い、疲れた面立ちで歩いている。

繁華街を抜けて、日陰の少ない道を歩いていると、水木先輩がとある広告板に足を止める。陸も倣って足を止め、視線を追うと、そこには花火大会のチラシが張り出されていた。

「花火大会ですか。」

ポツリと呟く陸の声に、水木先輩がチラリと一瞥する。

「かき氷食べたいですね。」

「…行く?」

陸は、水木先輩の言葉に驚いた。そして、言葉の意味を確かめるべく水木先輩を見た。水木先輩は、陸の視線に気づいているはずだが、じっとチラシを見て、目を合わせようとはしない。陸の自意識過剰な判断かもしれないが、先程の言葉は、水木先輩と一緒に祭りに行くかと問われた気がする。だが、単純に今年陸が祭りに行くのかを問われたようにも聞こえた。陸は躊躇しながら、願いを込めて、コクリと頷いた。それを見た水木先輩は、お得意の「ふーん」という相槌を打ち、再び歩き出す。その相槌から、果たして陸の考えが正しかったのか、分からずじまいだ。曖昧な相槌は、陸と水木先輩が一緒に行くのか、それとも今年陸が祭りに行くのか、どちらも問いかけでも返えりうる反応だ。後者の意味の方が、より自然な受け答えな気がして、陸は僅かに落ち込んだ。陸は、「まぁ良いか」と思い、すぐに忘れて足を進めた。


壁画の完成がいよいよ迫って来た。
汗水垂らしながら、部員は壁に張り付いて、刷毛を手に色を塗る。秋元先輩が言うには「後数日すれば出来上がりそうだね」だそうだ。陸も秋元先輩の意見に賛成だ。壁画の三分の二は、色が塗られていた。
水木先輩は相変わらず気分屋で、偶に来ていつの間にか居なくなっている。幽霊みたいな人だ。
時折、プールサイドに打ち水をして、涼みながら作業は順調に進んでいった。
終わりを迎えるのはいつもあっという間だ。最後に、一際大きな絵を塗り終わって、壁画は完成した。
たまたま水木先輩が居る日で良かった。
一旦離れて、その壁画を見る。つい先日ほどの壁と見違えた。ペンキを塗り重ね、完成した壁画がそこにあった。

風林高校の”風林”という響きにあやかり、描かれた大量の風鈴が音もなく風に揺らめいていた。一つ一つ模様が丁寧に施されて、風鈴の透き通ったガラスの向こうには見事な入道雲が堂々と佇んでいる。

部員は互いに抱き合い、嬉しさを分かち合っていた。こんな蒸暑の日々に外に出て頑張った同志だ。仲間意識が高まるのは自然の道理だろう。これがクラスの男子だったら、一人ぐらいは喜びで、プールに飛び込んだはずだ。女子だとその場を飛び跳ねて、抱き合う程度で、喜び方にも性差があるんだなと感心する。

チラリとプール端にいる水木先輩を盗み見る。水木先輩も、壁画を眺めて、しみじみとしていた。誘って良かったと思える。水木先輩が陸の視線に気づき、この間のように手を動かして「来い」と指示する。陸は見えない尻尾を振って、水木先輩の元に駆け寄る。

「本当、お前って犬みたいだね」

目元を和ませた先輩の顔に、無条件に高鳴る鼓動。先輩の犬ならなりたいとか思ってしまった自分がいた。それはやばいだろうと冷静な自分が言った。自分の考えに困惑し、胸にそっと閉じ込める。その扉は決して開けてはいけない。

「蒼くーん」

突如響いた声に、陸が顔を上げる。水木先輩は面倒そうに、声の響いた方へ視線を向けた。そこには、笑顔を浮かべた河内先輩がいた。手には皿を持っていて、切り分けられたスイカが息苦しそうにラップに覆われていた。河内先輩は水木先輩の元まで歩いてくると、ふふっと小さく笑った。笑い方まで上品だ。

「園芸部で取れたスイカを差し入れに持ってきたの。」

そう言って、河内先輩は皿を差し出した。水木先輩は、それを受け取り、秋元先輩の元へ歩いていく。取り残された陸は、気まずさに、唾を呑み込んだ。

河内先輩は陸に視線を向けて、にっこりと微笑む。人中に横線が入っている河内先輩の笑顔を正面で受け止めた。水木先輩が言っていた好きな子に河内先輩は当てはまるのだ。その事実を再認識して、足元の地面が崩れていくような、不安と落胆に襲われる。

「蒼くんと仲良くしてくれてありがとう。」

河内先輩は水木先輩を”蒼くん”と呼ぶ。その呼び方が、二人の親密さを表しているようで、顔が強ばる。

「蒼くんって少し人見知りだから…慕ってくれる後輩がいて、助かるわ。」

彼女の河内先輩だから、まるで所有物のように水木先輩を扱う。自分とは全く違う河内先輩の立ち位置に、陸はドロリとした感情を覚えた。その感情の黒さと禍々しさに、陸は衝撃を受けた。この感情は良くないと、すぐに抑制をかける。その感情は、不服そうに陸を見ながら、形を潜めた。

「はい。水木先輩のこと凄く尊敬しているので…」

乾いた笑みを浮かべながら、必死で取り繕う。足元がぐらついて、不安定だ。今すぐ河内先輩の前から走り去りたいと、強く願った。これ以上、一緒にいたらまたあの汚い感情を生み出してしまいそうだった。

「河内さんもスイカ食べる?」

暗闇を払うように、秋元先輩の声が聞こえて、陸は顔を上げた。陸の横に立っている秋元先輩の手には、切られたスイカが二個あった。陸は、助かったと胸を撫で下ろす。

「ええ、貰おうかな。」

河内先輩はスイカを受け取り、水木先輩の元へと歩いていった。水木先輩は日陰で涼みながらスイカを食べている。

「陸くんも、どうぞ。」

秋元先輩の柔らかい声に誘われて、陸はスイカを受け取った。

「ありがとうございます。」

「…陸くん。大丈夫?」

気遣う目線に、陸は微笑んだ。

「何がですか?」

「…私は陸くんの味方だからね。何かあったら私に相談してほしい。」

秋元先輩の言葉に、陸は口を開いた。しかし、結局言葉にはならなかった。胸に渦巻く感情を外に出すと、胸が軽くなるかもしれない。だが、同時に目を背けずに向き合わなければならなくなる。陸は、まだ目の当たりにしたくなかった。

「ありがとうございます。」

シャクリと食むと、瑞々しい果肉が口に広がる。その潤いは、陸の腹に渦巻く感情を癒やすかのように、身にしみた。その感情の正体は何か、もっと考えれば良かったのかもしれない。秋元先輩に打ち明ければ良かったかもしれない。しかし、陸はその感情を上から蓋をして、目を背けてしまった。無いものとして扱う。感情の正体を知り、陸の考えを覆される事が怖かったのだ。

大暑 大雨時行る

部活の無い日曜日に、陸は水木先輩の家を訪れた。水木先輩の家に訪問するのは、今回で二回目だ。場所は既知だが、水木先輩はわざわざ☓☓駅に来た。それから二人で、5分程度歩き、高級住宅地に入る。水木先輩の家は一際大きくて、白い壁の家だった。

「先輩の家って大きいですよね。」

陸は、玄関で靴を脱ぎながら呟くように言った。

「俺んち、父は医者で、母親は小さい会社経営やっているから。」

その返答に、陸は納得する。水木先輩の両親が高給取りだから、誰もが羨みそうな大き見事な家に住んでいるのか。

「へーそうなんですか。」

陸は感嘆の声を上げると、丁度靴を脱ぎ終わった。前回と同様に、二階に上がり、水木先輩の自室に入る。相変わらず、必要最低限の家具しか置かれていない、簡素な部屋だった。水木先輩が台所から、ジュースを持ってきて、グラスに注ぐ。甘いりんごの香りが部屋に広がった。礼を言い、グラスに口を付けて、一服する。

「じゃあ、いいかな。」

そう言って水木先輩は、徐に立ち上がる。陸はコクリと頷いた。そのために今日は水木先輩の家に来たのだ。

「まずは、…そうだね。ベッドに乗って」

陸は指示通りに、ベッドの上に手を置く。ふわっと香ってきた水木先輩の匂いを嗅ぐ。此処で先輩が毎日寝ているのだと、実感すると、顔が熱くなった。男の先輩のベッドに乗って顔を赤くする後輩など、旗から見て気持ち悪いだろう。陸は必死に平静を装う。
靴下は脱ぐべきか迷い、問いかけると、水木先輩は「そのままでいい」と言ったので、靴下を履いたまま、ベッドに乗る。

スプリングマットは弾力があり、手触りの良いシーツは虫も滑りそうなほどだ。此処で寝たら快眠だろうなと陸は思った。

「とりあえず、横になって。それから、足を曲げて、上半身だけ肘を立てて起こして」

水木先輩が事細かく指示するので、それに従った。微妙な体勢なので、長時間はきついだろう。水木先輩は、満足げに陸を見下ろすと勉強机からスケッチブックと鉛筆を取り出して、椅子に座って写実しはじめた。

そう。陸は今日、水木先輩の絵のモデルになるためにお邪魔したのだ。どうやら、今年のコンクールに出展する絵に描く少年が陸の背丈と同じくらいらしい。だが、まだ少年のポーズや絵の構造が決まらないために、アイデア想起を兼ねてデッサンをしたいそうだ。陸は一度、全体の構造を考えて、隙間を埋めるように小物を描くので、水木先輩のように主役となる物を決めてから、全体の構造を練る方法は新鮮だった。
しかし、後二ヶ月ほどしか作成期間がないのに、構造すら決まっていない水木先輩の悠長さに、陸は内心呆れていた。陸は、半年かけてコンクールの絵を描いている。しかし、水木先輩が怒号の勢いで書き上げた一品は、軽々と賞を勝ち取ってしまうのだと確信していた。水木先輩はそういう人だ。だからこそ、努力が報われない人から妬まれやすいのだろう。

考え事をしているうちに、水木先輩は鉛筆で写し終え、手早く水彩絵の具を取り出した。水木先輩は油彩絵の具よりも水彩絵の具を好む。此処半年間に、水木先輩は数回ほどしか油彩絵具を使わなかった。油彩画が下手という訳でもない。むしろ、その技術は卓越したもので、下手なプロよりも上手いと思う。水彩画も同様に、巧みで、独自の表現法を身に着けている。陸は、水木先輩の描く油彩画も水彩画も好きだが、淡い色合いで深みのある水彩画の方が個人的には好きだった。

陸はくいっと顎を上げ、息を吐く。シャツが後方に引っ張られて苦しい。水木先輩を一瞥すると、その真剣な眼差しと目が遭い、ドキリと胸が高鳴る。その鼓動を誤魔化すように、陸は口を開いた。

「…先輩、まだですか?」

「まだだね。」

「…シャツが引っ張られて苦しいです。」

水木先輩は眉を上げて、陸の首元に視線を注いでから、筆を持ったまま腰を上げる。動く許可は下してくれないようだ。水木先輩は、ベッドに乗り出して、陸の第一ボタンと第二ボタンを外す。

筆先が白いシャツにつきそうで、陸はヒヤヒヤしながら見守った。水木先輩は視線を上げて、意味深げにニヤリと口端を吊り上げ、意地悪そうに笑う。間近でその笑顔を見た陸の胸が、勝手にスピードを上げる。ドンドンと胸を叩き、痛みさえ生じる。

「気になる?」

水木先輩の手は、そのまま第三ボタン、第四ボタンを外していく。そこまで開ける必要はない。陸は既に、十分苦しさから解放されていた。

「先輩…もう、苦しくありません…」

驚くほどか細い声が出た。水木先輩がボタンを外す手を動かす度に、筆先に含んだ青色が踊るように動く。白いシャツの下から、現れた白い肌が頼りない。

「…そうだね」

水木先輩はシャツのボタンを半分程外すと、手を離し、ベッドから退く。陸は拍子抜けして、目を瞬かせる。

水木先輩は何事もなかったかのように、再び椅子に座った。

いつもなら、水木先輩が陸の想像もつかない事を言い出す場面であったが、呆気なく身を離された。陸はその考えに、顔に朱色が走る。まるで、自分が期待していたようではないかと、気づいたのだ。

水木先輩は、舐めるように観察してから、スケッチブックに視線を移す。筆をサラサラと動かして、また陸を見る。その冷たい目に、焼き尽くされそうな感覚に陥った。鼓動は、緩やかに時を刻み始めたが、平常より速い。それから永遠と思えるほど、長い時間を過ごす。それは、陸の体感時間の話であって、実際には十分も経っていなかった。水木先輩は、息を吐いて、スケッチブックを開けたまま、机の上に置いた。どうやら、デッサンを終えたようだ。どんな絵か気になるが、自分の絵だと思うと、見たくない気もする。複雑だ。

「じゃあ、次は上半身脱いでもらおうかな。」

「え…」

陸は自分の耳を疑い、水木先輩を見た。水木先輩は能面のような表情で、新しいスケッチブックを開きながら、淡々と言った。

「上半身だけね。」

「…はい」

美大生が、体の構造を知るために、裸体の女性や男性をモデルにデッサンすることがある。それを思えば、上半身だけ脱ぐ行為は、大したことでもない。可笑しな指示でもないはずだ。陸は自分にそう言い聞かせて、体を起こし、シャツのボタンに手を掛けた。先程、水木先輩が半分ほどボタンを外してくれたので、あっという間に、外し終える。シャツを脱ぐと貧相で薄い上半身が外気に晒された。

「シャツは適当にベッドに置いて」

「はい」

「で、ポーズは…そうだなぁ…体の角度は斜めにして、そう、で、ぺたんこ座りして、手は膝に添えて」

子供のようにベッドの上に足を崩して座り、手を膝に添える。それを見ると、水木先輩は満足げに頷いて、スケッチブックを手にした。今回は、鉛筆で大雑把に辺りを付けるだけで、直ぐに着色に入る。

最初は上半身をむき出した状態に、恥ずかしがっていたが、時間が経つと不思議なもので慣れてきた。水木先輩の、舐めるような視線も、気にならなくなる。時間を持て余した陸は、窓の外の入道雲を見た。

「…お前の肌って白いキャンバスみたいだね。」

唐突に響いた声に、陸は視線を水木先輩へ移す。

「…それは、肌が白いって言いたいんですか?」

「まあ、そうだね。」

「…男が白い肌なんて言われても、貧弱だねと言われた気がして、嬉しくありません。」

口を尖らせて、不服そうに言った陸。水木先輩は苦笑する。

「別に貶したわけじゃないよ…ただね」

陸は水木先輩の雰囲気の変化を、空気を通して感じた。水木先輩は筆に青い絵の具を付けて、筆先をスケッチブックではなく、己の指に惜しげもなく付けた。椅子から立ち上がり、水木先輩は陸に近づく。ベッドに手を掛けて、水木先輩が乗ると、二人分の重さが加わったベッドが沈んだ。水木先輩との距離に比例して、鼓動がまた早くなる。揶揄混じりの微笑を浮かべて、陸をみた。

「汚したくなる。」

「…え」

瞠目し、硬直する陸。水木先輩の目に、自虐的な光が宿った。べっとりと絵の具のついた親指を陸の口に突っ込んだ。ピクリと動く陸の手を、上から水木先輩の大きな手が抑え込んだ。その手が、案に抵抗することを許さないと言われているようだ。間近にある水木先輩の目が、「舐めて」と静かに、命じてくる。陸は当惑しながら、強い眼力に逆らえず、絵の具が付着した指をパクリと咥え、そろそろと舌を動かし、水木先輩の指の絵の具を舐める。甘い味のする絵の具がドロドロと溶け出して、麻薬のように脳を痺れさせる。水木先輩は満足げに見下ろして、指をぐいっと動かし、絵の具を舌に擦りつける。苦しさに、目を震わせた。
「口を開けて」と水木先輩が甘く囁く。その声に、心臓の鼓動が更に早くなる。陸は目を潤ませ、言葉に従い、口を開けた。絵の具で少し色づいた口内を見て、水木先輩は嬉しそうに、そして満足そうに笑った。初めて見た、屈託ない微笑みに陸は呼吸するのを忘れて見入る。しかし、その笑顔は一瞬だった。
水木先輩は、前触れもなく、陸の口内から指を引き抜いた。可笑しそうに細めて、呆然としている陸を見る。

「理科の授業をしようか。」

「りか?」

陸は、頭に沢山のクエスチョンマークを浮かべた。りかって教科の理科のことだろうか。陸が戸惑っている間に、水木先輩は手に持った筆を持ち替えて、陸の胸元に筆先を這わせた。冷たく柔らかい感触に、陸の体がビクつく。水木先輩はサラサラと筆を動かし、陸の白い上半身を水色で汚していった。

「此処が胃ね。食べ物は口から食道を通り、胃に入る。此処で食べ物が柔らかくほぐされる。一旦食物を蓄える貯蔵庫みたいな所。」

体表のみぞおち辺りに袋状の胃の絵を描いて、真ん中をトントンと筆先で突く。

「タンパク質をある程度分解するね。糖分や脂質もちょっとは消化されるけれど、本格的な消化はこっちの小腸。」

胃の尾っぽから管のような十二指腸を描いて、その先の下腹辺りに小腸を描く。しかし、その筆が止まった。陸は腸骨辺りまでズボンを引き上げていたので、邪魔だったようだ。水木先輩が、陸のズボンに手を掛けてずらそうとした。陸は慌てて先輩の手を止める。

「せ、せんぱいっ」

「なに?」

少し不満げに先輩が陸を見た。その視線に、「うぅっ」と弱腰になりながらも、陸ははっきり言った。

「…これ以上ズボン下げたら見えちゃいますって…」

何が見えるのか。それはナニである。それは阻止しなければいけない。陸は、全裸のデザインを了承して、着たわけではないのだ。頑なな陸の態度に、水木先輩は肩を竦め、ズボンから手を離す。陸は安堵の息を漏らした。下腹に、冷たい筆先が這って、擽ったさに身を捩る。小腸と大腸がうねっている絵を書かれた。すこしリアルなのが気持ち悪い。

「小腸では、食べ物を最終段階まで消化して、内壁からその栄養分を吸収する場所。大腸では、腸内細菌により、更に分解、そして水分を吸収される。その残り滓で便を成形するね。これで食べ物編は終わり。次は肺ね」

そう言って、水木先輩は陸の胸元に筆先を伸ばした。まだ続くのかと、陸は内心げんなりする。しかし、楽しそうな水木先輩を見ると、静止の言葉が出なかった。

「呼吸は外呼吸と細胞呼吸に分かれるけれど、今回は外呼吸について触れるよ。鼻や口から吸い込んだ空気は、喉頭に入って気管を通る。気管は左右の肺の中に入ると、2つに分かれて気管支になる。さらにその気管支は細かく別れて、肺胞という小さな袋があるね。ここから毛細血管に酸素が取り入れられる。」

チラリと胸元を見ると、肺の断面図が描かれていて、これまたリアルに肺胞まで書き込まれていた。グロ画像などに免疫がない陸は、「気持ち悪い」という感想しか抱かなかった。気がつけば陸の上半身はリアルな内蔵の絵でひしめき合っている。青い絵の具で書かれているから、まだマシだが、これが赤い絵の具だったらと思うと顔が青くなる。

水木先輩は肺を描き終えると、筆先を一旦表皮から離した。漸く、変な模擬授業が終わるのかと、安心する。しかし、陸の予想に反して、筆先は再び陸の肌に近づいた。

「…あ…」

クリクリと筆先が陸の乳首を弄る。陸は、吐息を震わせて、水木先輩を見上げた。間近にある水木先輩の顔は平然とした表情で、陸の乳首を見ている。

「せ、先輩…」

「ん?」

「そこを…その…」

「そこって?」

「ち…乳首をあまり…触らないで欲しいです…」

毛先の細かな筆で、乳輪を撫で回し、先端を突っつく。女性ではないので、感じないが、擽ったい。乳首は外部からの刺激を受け、段々硬度を高める。ツンと上向いた乳首を満足そうに観察しながら、水木先輩は言った。

「乳首とは、哺乳類が有する、胴部に左右の対を成している小さな突起物の事を言うね。女性は、ここを刺激すると性的快感を得られる。性感帯としても知られているね。…男性に置いてもあり得るって知っているかい?」

「え」

「男性の乳首も何度か外部から刺激を受けることで、性感帯になれるってこと。」

陸は混乱しながら、水木先輩が披露する知識に顔を引き攣らせる。水木先輩の言葉通りならば、陸が女性みたいに乳首を刺激されて、感じるようになる可能性があるということだ。その事実に、抵抗感を抱く。陸は、平均身長よりも低いし、貧相で薄い体つきだが、股間には逸物がしっかり男だ。
女のように、乳首で感じる事などなったら、ゾッする。男ならだれしも嫌がるはずだ。現に陸は抵抗感を抱いている。
しかし、心のどこかで先輩なら何されても良い等と血迷った考えが浮かんできて、自分が怖くなる。自分はおかしい。男なのに、最近は女々しいことばかり考えるようになってしまった。それが嫌で嫌で堪らないのに、理由を探ると、辿り着く先はいつも水木先輩だった。自分が分からず、半泣きになる。

涙ぐんだ陸に、水木先輩は珍しく瞠目して、体を離した。少しバツの悪い表情をして「ちょっとやりすぎたかな…」と呟いている。

涙は水木先輩と離れると、引っ込んだ。水木先輩は、ベッドから降りると、クローゼットから黒いtシャツを取り出して、陸に投げた。陸は反射的に受け取る。投げ出されたtシャツをしげしげとみて、首を傾げた。

「それを着てね。着替え終わったら、外に出よう」

「…え?デッサンはもう良いんですか?」

「うん。大体イメージがつかめてきたから、あとは構造を練るだけだね。」

水木先輩は言いながら机の整頓を始めた。正直シャワーで上半身の絵の具を洗い落としたかったが、他人の家なので言い出せず、陸は渋々渡された黒tシャツを身に着けた。


太陽が中点から西に傾いた午後。セミの大合唱を聞きながら、陸は水木先輩の後を連いて行く。漸く付いた目的地は、人で賑わう大通りだった。通りの両端には屋台が立ち並び、いい匂いがする煙が空へ昇っていく。ふと、部活の買い出し帰りに見たチラシを思い出す。そのチラシに記載された花火大会が今日だった。横にいる水木先輩を見上げて、陸はこっそり笑った。あの時、陸に尋ねた問いかけは祭りに一緒に行くかという誘いだったようだ。
分かりにくい水木先輩の物言いに、照れ隠しが混じっているようで、陸はくすくす笑った。水木先輩は、不審そうに陸を見てから、かき氷屋を見つけると、陸の手を引く。
当たり前のように握られた手が熱く、ずっと水木先輩に手を引かれたいと願った。

かき氷屋には、30代のおじさんがいて、陸たちが近づいてくると、ニッコリと笑った。

ハワイアンブルーを2つ。」

水木先輩は、陸に尋ねず、勝手に注文した。

「へい。」

屋台に垂れさがっている値段を確認し、財布の残高で足りるだろうと考えた。
横に居たおばさんが料金を提示したので、陸は鞄をあさり、財布を取り出す。

「これで」

陸がお金を取り出す間もなく、水木先輩が先にお金を払った。水木先輩の袖をクイッと引張り、「先輩」と声を掛ける。それから、差し出したお金を見て水木先輩は「いいよ。モデル代だから」と言って受け取ろうとはしなかった。
モデル代なんて必要ないのにと思いながらも、渋々お金を財布の中に戻した。

おじさんは、安っぽいプラスチックの容器をかき氷機の下に置く。鰹節のように削れた氷は、容器にこんもりと盛られて、まるで雪山のようだった。その上に、水色の液体を掛けると、液に溶けて雪山が小さくなった。スプーンストローを差して、にっこりと笑顔でかき氷を手渡された。

陸と水木先輩はそれを受け取り、かき氷屋を後にする。雑踏を少し歩き、近くの茂みに入ると、小さな公園があった。人気はなく、廃れた遊具が寂しそうに佇んでいる。小さい頃によく遊んだ公園と似ている。
水木先輩は、古いベンチに座ったので、陸はその横にちょこんと腰を下ろす。かき氷は、夏の暑さに溶け、受け取った時に比べ小さくなっていた。陸は急いでストローを持ち、口に運ぶ。陸は冷たい物を早く食べる事が得意だった。幼い頃に食べるスピードが遅く、溶けたアイスが棒から滑り落ち、地面に無残に落ちたのだ。それが一度ならず、二度三度と繰り返され、悔しさや悲しさでいっぱいになった陸は、早く食べるコツを覚えた。

陸はあっという間にかき氷を平らげる。横を見ると、水木先輩がちまちまかき氷を口に運んでいた。どこか女の子らしい食べ方で、陸はふふっと笑う。

「もう食べたの?」

「はい。」

「ならこれもあげるよ」

差し出されたかき氷のカップを、陸は嬉々として受け取る。はくっと食べてから、陸は気づいた。そう言えば、間接キスだと。水木先輩の使用したスプーンストローを使って、陸も食べてしまったのだ。男同士なのだから、気にする方が可笑しいと冷静な自分が言っている。だが一旦意識してしまうと、知らなかったように使う事ができない。だからといって、スプーンストローを変えるわけにも行かず、陸は途方に暮れた。

「どうしたの?」

硬直する陸を見て、水木先輩は訝しげに聞く。陸は困惑し、視線を宙に彷徨わせた。

「えーと…か」

「か?」

「かん…せ」

「かんせ?」

「…間接…きす…だなぁっ…て…」

弱々しく吐き出された言葉に、水木先輩は瞬きを繰り返し、陸を見た。最近良く見る意地悪な笑みを浮かべる。

「…間接キスだね」

陸はその笑顔に「うぅ」とついうめき声を上げて、顔を背けた。嬉しそうな先輩の声音が心臓に悪い。背後で先輩の笑い声が聞こえて、更にときめく自分は可笑しい。変だ。高鳴る心臓も壊れているに違いない。だって、先輩はどこからどう見ても男で、陸も男なのだ。男にこんな反応する自分は変である。

「何見てるの?」

耳元で囁かれて、陸は震えて顔を伏せた。水木先輩の声で腰砕けになる。心臓が痛いほど高鳴る。胸から心臓が突破ってしまいそうだ。全身が脈打ち、背後にいる先輩の存在を意識する。

「こっち見て」

顎に手を添えられて、誘われるように水木先輩の方を向く。整った顔は吐息がかかる程近くにあり、クラリと目眩がする。
添えられている手の親指で、陸の唇をなぞる。皺を確かめるように。その弾力を楽しむように。甘美な疼きが、触れられた場所からじわじわと広がる。
駄目だ。これ以上、触れられたら、自分の胸の奥にしまった感情から目を逸らせなくなる。閉ざした扉から、想いが溢れてしまう。そう思う一方で、暴かれたいと願う浅ましい自分がいた。
陸はとろりと眦を蕩けさせ、水木先輩を見上げる。

「ねぇ、口を開けて。」

甘く命ぜられて、陸は目を伏せて、口を開いた。

「あと、舌を出して」

奥に潜んだ舌を出す。だらしない陸の顔をじっくりと見た後に、かき氷で青く染まった舌に視線を移す。水木先輩は、嬉しそうに微笑んで青くなった舌を指で突いた。

「やっぱり、かき氷を食べると綺麗に染まるね。」

喜色の滲んた声に、陸も心が弾む。水木先輩はうっとりと眦に欲を滲ませて、陸の舌を食べるように唇を重ねた。チュウチュウと舌を甘く吸われて、言い難い快楽が疼く。それは間違いなく濃厚なキスだった。男同士で、しかも先輩後輩関係の陸たちが濃厚なキスをするのは可笑しい。変だ。そう頭の端で理性という名の常識が叫んでいる。しかし、押し寄せる熱に侵されて、陸は何も考えられなくなった。

「んっ…あ…」

キスの合間に吐息のような情けない声が漏れる。淫猥な音が人気のない公園に響いた。熱を共有する行為に、息が乱れる。誰かが来るかもしれないという場所で、危機感すら気にならないほど、陸は水木先輩に神経を注ぐ。水木先輩の舌は陸の口内を蹂躙し、翻弄する。柔らかい粘膜を擦られ、吸われた。送り込まれてくる唾液を何の抵抗もなくコクコクと喉を鳴らして呑む。甘いそれは、かき氷の味がした。腰が砕けになっていると、水木先輩の手が優しく支える。その手の熱さと感触に、胸が詰まるほどの感情が生まれた。
酸欠で頭がぼんやりとした頃、リップ音と共に水木先輩と離れる。

陸は荒く呼吸を繰り返しながら、水木先輩に体を預けた。

水木先輩は陸の体を安心させるように擦り、その優しさにまた感情が大きくなる。溢れる想いは、閉じ込めた扉から溢れ出して止まらない。陸はその扉に手を掛けて、眦を決して開く。溢れた想いは、陸の体中に浸透した。

――――俺はこの人が好きだ。

感情に名前が付けられた。男同士だとか、常識だとかどうでもいいと思えるほど、目の前にいる先輩への好意が勝った。恐れていたはずなのに、不思議と心は凪いでいた。それはきっと横にいる水木先輩のおかげだろう。先輩が、黒のtシャツを捲り、陸の腹を擦った。手についた青い絵の具に満足気に笑う。無邪気に笑う先輩の笑顔や優しい眼差に、陸はトキメイた。





「なにあれ…」



立秋 涼風至る

涼しい風が立ち、秋の気配を感じる頃。暦上は秋といっても、まだまだ暑く、空には入道雲が浮かんで、蝉が鳴いている。

己の想いを自覚してから、陸と水木先輩の関係は何も変わらなかった。陸は、水木先輩に想いを告げるつもりは毛頭なく、墓場まで持っていくつもりだ。男から好意を寄せられる事事態、陸にとっては異質だった。それを憧れの先輩に抱いている事実に針を呑むような呵責の哀しみを感じる。恋心は煩わしいだけだった。
陸にとっての理想は、このまま何事もなく先輩後輩関係を保ち、卒業後も先輩の絵を見られる立場にあり続けることだ。告白は、その理想を脅かすだけで、百害あって一利なし。陸は、現状に満足していた。想いを隠して接する事に、良心の呵責を感じるが、何事もなくつつがなく生活を送っている。

頭に河内先輩の事がよぎったが、陸はあえてその存在から目を背けて、意識しないようにつとめた。河内先輩の事を考えると、再びよくない感情が溢れ、自分ではない何かになってしまいそうで、恐ろしかった。幸い、嫌なものから目を背けて、忘却することには長けていた。

壁画が完成すると、三年生はめっきり足を運ばなくなる。予備校などで忙しいのだろう。

陸は、課外授業を終えると、鞄を掴んで教室を出る。足を向ける先は美術室ではなく、靴箱だ。今日は部活が休みなのだ。陸が、靴箱で履き替えていると、背後から名を呼ばれた。

「陸―!」

振り返ると、澤田の姿がある。

「どうした?」

「たのむっ絵の具を貸してくれ」

「…何に使うんだ?」

陸は渋面を作りながら、問いかけた。絵の具は部費と学校から出る資金で賄っている。個人的な事情で、使用してはいけないと美術部員は全員、田中先生から釘を刺されていたのだ。

「写真を取りたいんだ…後輩が…美術部に知り合いが居ないから、頼まれてさ…」

困ったように眉毛を八の字にして、陸を見る。

「写真を撮るだけなら…まぁ…」

ため息を付きながら、陸がそう言うと澤田は嬉しそうに笑顔を浮かべた。澤田に尻尾が生えていたら、ブンブンと左右に振っているだろう。

「ありがとうっ!」

「色の指定はあるか?」

「なんでもいいそうだ」

「じゃあ取ってくるから、写真部で待ってな」

「分かったー。待ってるなー!」

澤田はそう言い残し、その場を去っていった。陸は渋々掃いた靴を脱いで、ロッカーに戻す。

階段を使って、芸術棟の二階に上がり、端に位置する美術室に向かって廊下を突き進む。廊下は静かで、人気がない。途中、書道室をドアから覗くが、ガランとした空間に古い机が整列しているだけで、人の姿がなかった。きっと書道部もお休みなのだろう。陸は、閑散とした廊下を歩き、漸く目的地である美術室が見える。アトリエには、電気がついていない。部活がないので先生は帰ったのだろう。ひょっとすると学校に来ていなかったのやもしれない。
ドアを開こうとドアノブに手を掛けると、中から人の声が聞こえて、手を止めた。その声が溌剌とした秋元先輩だったら、迷うことなくドアを開けて挨拶をしただろう。だが、美術室から聞こえてきたのは、猫のように甘える声だった。その声に聞き覚えがあって、陸の頭に嫌な予感が過る。
頭の警鐘がけたたましく鳴り、ここに居ては危険だとサインを出す。だが、陸の足は地面に縫い留められて、そのドアの先で聞こえる会話に耳を済ませた。

「ねぇーいいでしょ。しようよ…」

「はぁ?ここで?」

突き放すような冷たい声は、陸が恋い焦がれている水木先輩のものだった。陸が聞き間違えるはずはない。
冷たい水木先輩の声に、全く堪えてない様子で、甘い声が再び響く。

「じゃあさ、キスだけでいいよ。」

甘える声は、水木先輩の彼女の河内先輩のものだった。
中からガタリと椅子を引く音が聞こえた。その後、リップ音がドア越しに響いて、陸は耳を塞ぎたくなる。その場を去ろうと、足に力を入れるが、衝撃のあまり石のように硬直した足は、意志に反し動かない。室内で何が繰り広げられているのか。見ずしても容易に分かる。水木先輩と河内先輩は恋仲だ。恋人なら当然、性行為に準ずる行為だってする。
覚悟していたはずなのに、目の当たりにすると、心がバラバラになりそうな程痛かった。喉から哀しみがせり上がる。同時に、腹の奥でドロリとした感情が、渦巻いた。陸は必死にそれを抑制する。

「んふっ…ねぇ。蒼君。私のこと好き?」

「あぁ」

「陸くんより?」

突如出された己の名前に心臓を掴まれる。なぜ、河内先輩の口から、陸の名前がでたのか、陸は冷や汗をかいながら、混乱した。そして、水木先輩の答えを聞きたくなかった。耳を塞ごうと両手を上げる。聞かなくても分かっている。だって、彼らは恋人なんだから。一介の後輩と比べられても、勝ち目なんて無い。

「あぁ」

耳を塞ぐ前に、無情に響いた声が耳朶に響いた。その声が陸の心にとどめを刺す。陸は自分の心が壊れる音を聞いた。絶望で足元から床が崩れていくような感覚に陥る。分かっていたはずなのに、水木先輩の声で再認識させられると、格別な痛みが胸に走った。同時に、箍がはずれ、黒いドロリとした感情が湧き上がる。それは、水木先輩に好きだと肯定された河内先輩へ向けられた。この間とは比にならない強い感情は、抑制しようとしても、とめどなく溢れ、抑えがきかない。そして、はあっという間に陸の体を呑み込んだ。呼吸が浅くなる。醜い感情は、明らかに嫉妬だった。彼女として水木先輩の横に居る河内先輩の存在が鬱陶しくて、邪魔で、憎くい。陸は、水木先輩の後輩という立場に満足していた。そのはずなのに、キスをして、甘えられる彼女の立場が口から手がでるほど羨ましかった。

涙が溢れた。つうっと頬を流れる雫が、床にポタポタと落ちる。そのまま陸は覚束ない足取りで、音もなくその場を離れた。

フラフラ歩き続けながら、頭の中で先程の会話を思い出しては、陸は自分の心を抉った。

醜い嫉妬心に苛まれた陸は、今までのように河内先輩を無視できない。彼女の影が付きまとい、今までのように水木先輩の前で笑える自信がなかった。水木先輩の顔を見る度に、陸は河内先輩の存在を意識し、嫉妬する。嫉妬すれば、きっと水木先輩に良くない態度を取ってしまう。後輩としての立場を失ってしまう。

「陸くん?」

その声に顔を上げると、そこには秋元先輩と岸田先輩が手にプリントを持って立っていた。そこで陸は、三年生の棟まで歩いてきたのだと気づく。

「先輩。」

笑おうとしたが、駄目だった。気が抜けたのか、陸の双眸から涙が決壊し、涙が乾いた頬に、再びポロポロと頬を伝う。急に泣き出した陸に、秋元先輩だけでなく、常に冷静な岸田先輩までもがぎょっと目を剥いた。

「どどどどしたの?!陸くんっ大丈夫?落ち着いて?」

「貴方が落ち着きなさい。…陸君、大丈夫かね?」

二人の先輩に心配げに覗き込まれて、陸は嬉しさに更に泣き出した。二人は顔を見合わせて、陸の肩を優しく抱いた。

「陸くん。ここじゃ、人通りがあるから場所を変えようか?歩ける?」

「近くの空き教室を使おう。…手を貸そうか?」

「うん。お願い。」

二人に連れられて、陸は空き教室に入る。

秋元先輩は陸を椅子に座らせて、岸田先輩は教室のエアコンを付けた。一息ついて、漸く落ち着いてきた頃に、陸は痴態をさらしたことの羞恥心に見舞われる。

「陸くん。話せる?」

「まぁ、なんとなく予想はつくがな…陸君。話すべきだ。悩みすぎても良い答えは出せない。一度外へ吐き出すのも一つの策だ。」

先輩たちの優しい声と、心配そうな顔に、陸は胸が痛くなる。できれば、誤魔化したいと想った。しかし優しい彼女らなら、受け止めてくれるのではないだろうかと、浅ましい想いを抱いてた。声に誘われ、陸は躊躇いながら口を開いた。

「実はですね…最近気づいたことなんですが、…俺は水木先輩が…その恋愛的に好きでして…」

「それは今更だね。」

「既に知っているが?」

「え…」

陸は顔を上げて、涙で腫れた目で二人を見る。二人は陸の告白を難なく受け止めただけではなく、既に知っていたと言った。二人は平然とした表情で、いつものように会話する。

「寧ろ、遅かったぐらいだよ。」

「はたから見たら、かなり分かりやすかったしな。」

「で、陸くんはなんでそんなに泣いているの?辛いことあったの?」

「水木君が何かしでかしたのか?」

陸は拍子抜けして、息を吐く。そしてポツポツと語りだした。

「…さっき美術室に言ったんですけれど、中で水木先輩と河内先輩がいて…聞いちゃいけないって思ったんですけれど、どうしても気になって…会話を聞いたんです…すると、二人は…キスをして…水木先輩が俺より河内先輩の方が好きだって言うから…ショックを受けて…はは…知っていたはずなのに、本人から聞くと…心にかなりキて…つい、泣いてしまいました…」

軽く笑いながら、鼻の奥に独特な痛みが広がり、泣きそうになる。その言葉を聞いて、岸田先輩は首を傾げた。

「ん?…おかしいな…アイツは君のことが…」

「ちょっと、美香?何を言っているのかな?はは、この子ったら」

秋元先輩が岸田先輩の言葉を遮り、手で口を塞ぎながら、焦った表情を浮かべた。陸は、二人を不思議そうに見上げた。
二人は陸に聞こえないように身を寄せ合って、耳打ちする。

「ちょっと、何をするんだ。」

「私達が手助けしてもいいと思うけれど、…二人の問題なんだから、二人で解決すべきよ。あまり外野が出しゃばるらない方がいい。」

「だが、この場合は明らかに伝えた方が、事が円滑に運ぶ。」

「今はね。でも、この場は凌げても、二人がこれから壁にぶつかったら?私達はずっと彼らの側に居るわけじゃないの。この二人で乗り越え、解決できないと、これから深刻な事態に陥ったら対処できないかもしれない。杞憂かもしれない。でも、私達は当事者ではなく、見守る側なの。」

秋元先輩の言葉に岸田先輩は言葉を詰まらせて、「確かに一理ある。」と呟いた。陸にはその会話が聞こえず、何を話しているのだろうかと首を傾げた。
二人は和解して、再び陸に向き合う。

「コホン…えっとね、陸くん。私は陸くんの心のままに振る舞えばいいと思うの。」

心のままに…」

「そう。あまり深く考えすぎないようにね。上手く行かなかった時はその時よ。…でも決して諦めない事。最後に笑うのは、我慢する人でも諦める人でもなく頑張って諦めない人。その姿に、人は心を動かされるんだと思う。」

陸は秋元先輩の言いたいことが何となく分かった。まるで体育会系のような精神論だ。それを実践できる術がない。

「だって、俺は男で…顔も平凡だし…告白しても玉砕が目に見えている…」

「玉砕の何が悪いの?」

「…先輩の絵が見れなくなる…」

「それが先に来るのか」と岸田先輩が呆れた顔で言った。秋元先輩も少し顔が引きつった。

「…まぁ、絵に関しては美香に任せればどうとでもなるね。」

「何故私なのだ…」

岸田先輩が不満そうに秋元先輩を見る。

「だって、水木くんは、美香みたいなネチネチした執念深い人苦手みたいだし。美香が頼めば絵はいくらでも見れるよ。」

「ほー。私のどこがネチネチと執念深いのか、教えてもらいたいものだ。」

岸田先輩が額に青筋を立てながら、ニッコリと笑った。陸にとって、岸田先輩は真面目で誠実で、少し神経質な人だった。執念深さとは無縁のように思えて、秋元先輩の言葉に疑問を抱く。そんな陸の顔を見て、秋元先輩は肩を竦めた。

「…たしかにね。一見真面目な優等生でしょう?…でも中学の時凄かったんだから。当時好きになった人に、執念深く付きまとい、『自分と付き合ってくれ。必ず幸せにする』って言いまくってたの。まるでプロポーズね。でも、その子は美香のことなんて眼中になくて、面倒くさいなぁ程度に思っていたの。美香は、何度も告白して何度も振られた。でもね、美香はめげなかったの。で、色々あってね。その子は美香の執念深さに折れて、絆されたみたい。本当、美香の執念深さには舌を巻くね。」

秋元先輩はやれやれと肩を竦めた。陸はその話を聞いて瞠目し、岸田先輩を見る。岸田先輩が情熱的な一面を持っているのだとしり驚いた。岸田先輩は言葉を肯定するように、渋面を作っていた。

「美香は、自分の要望を通すためには地獄の果まで付き纏うほど、執念深いのよ。そんな美香が水木くんは苦手みたい。最後には折れるに決っている。だから、玉砕後の絵に関して、何も心配することはないよ。」

「は、はい。」

岸田先輩のエピソードが強烈過ぎて、陸は気の抜けた返事をする。秋元先輩は優しく陸の頭を撫でて、笑った。

「私は陸くんの味方だから。頼ってくれると嬉しい。」

その屈託ない笑みに、陸は救われた。


陸が落ち着いて、空き教室を後にすると、二人の間にこんな会話が交わされた。

「美香が、陸くんにあんなに優しいなんて驚いた」

「後輩だから当たり前だろう。」

過去を暴露された尾を引いているのか、岸田はどこか不機嫌そうだ。

「だって美香、最初は陸くんのこと目の敵にしてたじゃない。どういう心変わりした訳?」

「…女の子同士は恋ができんからな。」

「え?陸くん男だけれど…」

「性質の話だ。性別じゃない。」

独特な自論を展開する岸田の言葉に、秋元は呆れ顔で相槌を打つ。彼女には、理解できない考えらしい。

「ふーん。でも、私と美香は女同士だけど付き合っているよ?」

「…君は、私だから付き合っているのだろう?女だからではない。…君は元々男性が好きなのだからな…」

岸田は、白い頬を赤らめながら言った。秋元は珍しく照れる岸田に笑みを湛える。

「…そうだね。美香だから付き合っているんだよ。…だから、妬いちゃった」

「当たり前だ。…ん?妬いたとはどういう意味だ?」

岸田は胡乱げに片眉を上げて、眼鏡越しに返答を催促する。

「だって、あんまり他人に興味示さない美香が陸くんにはなーんか優しかったんだもん。」

口を尖らせて秋元が言った。その言葉に、岸田が軽く咽る。

「ゴホンゴホンっ…私には露里だけだ…」

「え?今名前呼んだ?珍しー!もう一回呼んで!!」

「はぁ!?何度もは呼ばん!減るだろう!」

「減らないよー何言ってんのー」

「その…勿体無いんだよ…」

モゴモゴと口の中で岸田が言うと、秋元はふてくされた表情を浮かべる。

「えー意味わかんないー」

「うるさい!いいから教室に戻るぞ!」

照れ隠しに怒り出した岸田に秋元はため息混じりに返事をする。

「はーい。」

「なぁ、露里…幸せか?」

窺うような岸田の表情は、中学校の時に堂々と告白してきた彼女と同一人物には見えない程、弱々しかった。あの頃は必死だったんだろうなぁと思いながら、その問いに秋元は胸を張って答える。

「もちろん。」

二人は笑い合いながら、空き教室を後にした。

立秋 蒙霧升降す

朝に深い霧が立ち込める頃。陸は水木先輩とぎこちないままでいた。秋元が背中を押してくれた言葉がぐるぐると頭の中に渦巻くが、いざ水木先輩を前にすると、どうしても尻込みしてしまう。告白など夢のまた夢であった。だが、思いを打ち明ければ楽に慣れるのではないかと、考えることが増えた。陸にとって、水木先輩の恋心は重すぎて、一人で抱えていると潰れそうになる。ならば、いっそその恋心を終わらせたいと思うのは人間自然なことではなかろうか。告白して、恋心に区切りをつけたいを思いながらも、ウジウジ悩んでいる自分に、陸は自己嫌悪していた。

秋元先輩から任命された飲み物を運ぶ係も、後輩に押し付けた。陸は、ここ一週間ほど準備室を訪れていなかった。
後輩はしばしば、お茶を運ぶことを忘れるようだ。それに、夏の暑さに、喉はいくらでも乾く。水分摂取は大切だ。だから、最近はよく水木先輩が美術室に現れる。
その度に陸の神経は水木先輩の一挙一動に注がれて、手元が疎かになる。
遠い水木先輩との距離に悲しくなるが、陸が心を落ち着かせられる距離だった。

陸は現状を打破できず、頭の毛が抜け落ちそうなほど悩んでいた。

「でさー、家にいる猫がさー」

陸と机を挟んで向かい合うように座っている澤田は、家の猫について延々と語っていた。この間、頼まれた絵の具を忘れていた陸を、澤田は責めなかった。ただ、美術室にきて、陸の前を陣取り、「後輩がすっごく睨んできて、肩身が狭いのよー」と陸の過ちをチクチク刺激する。絵の具を借りてくるように頼んだ後輩からみたら、澤田が約束を破ったように見えるのだろう。実際は、陸が悪いのだ。そう思うと、澤田の雑談に付き合うぐらいなんてこと無い。罪滅ぼしだ。

「へー。澤田の家の猫、長生きだな」

「そうなんだよー。でも、すっげぇ元気でさ。俺より長生きするんじゃねーかって思うぐらいだ。」

「そりゃすげぇな。長生きすると猫の尾は2つに分かれるんだっけ?」

「こわっ。そんなみーさん見たくないっ。そういえばさ、この間猫を拾って…」

こうして澤田の話はコロコロと変わる。それが面白いから、陸は特に気にしていない。澤田が少し前に拾ってきたという猫の可愛さを熱心に語るので、陸は薄く笑った。

その時、美術室のドアが開く。それから響く足音だけで、見ずしてもその人物が誰なのか分かってしまう。そんな自分が気持ち悪かった。

澤田は、硬直する陸に構わず好き勝手に話す。陸は固い面立ちで、先輩が美術室から一刻も早く去る事を願った。

「おーい。大丈夫か?」

その声に陸は我に返り、視線を上げる。反応の薄い陸を、心配そうに澤田が見つめていた。陸は首を振って、澤田を安心させるため軽く微笑む。

「いや、少し考え事を…」

言葉は最後まで続かなかった。派手なガラスの破壊音が響いたのだ。視線を音のした方へ寄せる。

「ちょっと、水木君。大丈夫?」

田中先生が慌てた様子で、呆然と立っている水木先輩に駆け寄る。水木先輩の足元には、無残なグラスが破片となって散らばっていた。どうやら、グラスを落としたようだ。田中先生は反応のない水木先輩を訝しく見上げた。

「怪我は…なさそうね…」

田中先生は、安堵の息を漏らし、ちりとりと箒を取りに掃除ロッカーに向かった。

水木先輩は冷たい目で落ちたガラスを見下ろし、その視線を徐に上げて陸を見る。恐ろしいほど冷え切ったその目を向けられて、陸は呼吸を止めた。その瞳の奥に宿るのは、間違いなく憎悪だった。向けられる強い視線に、陸は背筋が凍りつく。

「水木先輩、怪我はないですか?」

最近よく、水木先輩に飲み物を運ぶ後輩が近づいた。水木先輩の視線は漸く陸から剥がされ、その後輩を見る。

「ない」

淡々とした声音に、秘めた怒りを感じ取った。後輩は鈍感のようで、それに気づかない。水木先輩はその場にしゃがんで、欠片に手を伸ばす。

「そうですか。欠片集めるの手伝います。」

後輩が水木先輩に倣い、その場にしゃがんだ。その光景をみた澤田が、ふと思い出したかのように口を開く。

「そう言えばさ。去年の夏にお前んち言った時に、壺壊したよな」

その言葉に陸は呆れ顔になる。

「あれは壺じゃなくて、花器だ。」

「そうだっけ?同じもんでしょ。」

「違うよ。ばか」

壺と花器は似ても似つかない。形状が全く異なし、用途も違う。陸は澤田の言葉に思わず笑った。「そうかー?」とおどけた様子で澤田が言う。すると、焦った後輩の声が耳朶に響いた。視線を向けると、先輩の手が血で赤く染まり、それを見た後輩が顔を青くしている。どうやら、鋭い欠片で傷ができたらしい。田中先生がちりとりで欠片を拾い終わり、新聞紙で包んでいるところに、水木先輩が近寄る。

「先生、怪我をしました。」

その手から鮮血がポタポタと流れて、床に血痕を作る。

「え?まだ欠片あったの?…とりあえず保健室行ってきなさい。誰か付き添ってくれる人は…」

先生が言いながら辺りを見渡す。美術室はしんと静まり返り、先生と目を合わせようとしない。だが、水木先輩の近くに居た後輩だけが、おずおず近づく。

「わ、わたしが…」

頬を染めながら後輩が申し出る。その表情から、後輩が水木先輩を好いているのだと察した。その事実に、胸が締め付けられ、閉塞感を覚える。
田中先生が「あ、そう?…じゃぁ、お願いしようかしら」と言う。その言葉に陸は耳を塞ぎたくなった。固く握った拳が白くなる。

水木先輩は、二人の会話を無視して、陸に近づいてくる。先輩は能面のような顔をして、驚愕する陸の腕を引っ張り、強引に立たせた。

「行くよ」

先輩がそう言って、陸の腕から手を離すと、スタスタ歩いていく。陸は、当惑しながら先輩の言葉に従い、後を追う。背後で澤田の焦ったような声音が掛けられるが、陸には聞こえなかった。陸の神経は、前にいる先輩に全て注がれていた。

芸術棟の横に隣接されている棟には職員室や事務室、生徒会室ある。その端に、保健室があった。
ドアを開けるが、先生の姿がなく、不在のようだ。水木先輩は、保健室に設置されている水道で血を洗い流して、無断でガラスケースを漁る。その動きに迷いはない。
水木先輩はガーゼと紙テープ、そして包帯を手にした。呆然と立ち尽くしている陸に視線をやり、ソファーに座る。
陸は恐る恐る近づいた。
年季の入ったソファーは、所々破れれている。腰を下ろし、足を組んだ先輩が、手に持っている用品を陸に押し付ける。それを受け取る時に、手が触れて、陸はビクリと手を震わせた。その仕草に水木先輩は、舌打ちをする。
機嫌が頗る悪い水木先輩は、かなり怖い。しかし、怪我をしている手が気になって、陸は水木先輩の横に腰を下ろした。緊張で震える指先で水木先輩の手を取る。掌には赤い切れ目が入っていて、水で滲んでいた。陸はそばにあるティッシュを取り、優しく水を拭う。そして、ガーゼを傷口に押し当てて、紙テープで固定した。
用意された包帯を使うべきか迷い、水木先輩の顔を窺う。そこには、能面のような表情をした水木先輩が陸を凝視していた。陸は慌てて、顔を伏せる。陸が傷の手当をする間も、そうして陸を見ていたのだろうか。そう思うと、壊れた心臓が勝手に高鳴る。
怪我していない手が差し伸ばされて、陸の顎を掴み、くいっと上を向かせる。乱暴な手付きだった。
不機嫌そうな水木先輩の目が、陸を責めるように見下ろす。

「…あんまりヘラヘラしていると…校内で犯すよ。」

低い声で紡がれた声は、陸に衝撃を与えた。陸に笑うなと言っているのだろうか。それは、あまりに酷い。その上、陸に無体をはたらくのを仄めかす。陸は先輩に嫌われてしまったのだろうか。
恐怖より、哀しみと自分勝手な水木先輩の言動に腹が立ち、キッと睨んだ。

「彼女がいるのに、俺にそんなこと言って良いんですか?…浮気ですよ…」

陸の反抗に、水木先輩は片眉を上げた。従順な陸が、先輩に口答えする事に驚いたようだ。

「は?何いってんの?」

眉を寄せ、しらばっくれる水木先輩の言葉に、感情が高ぶって、泣きそうになる。

「先輩、俺より河内先輩が好きだって言ったじゃないですか…なのに、俺に、おか、犯すだなんて…酷いです…しかも、はぐらかすし…」

言いながら、目から涙が決壊し、ボロボロと陸の頬を伝う。急に泣き出した陸に、先輩は驚いて、顎から手を離した。
吹き荒れる嵐のような感情をコントロールできない。そんな自分が怖くて、好きな人の前で無様に泣き出した自分が情けなくて、陸は恥じ入るように顔を伏せた。涙腺も心臓と同じく壊れたようで、涙が止まらない。
水木先輩は、バツの悪い表情をして、陸の肩に手を掛けて、己の懐に閉じ込めた。ふわりと香る先輩の匂いが強くなって、陸は胸が詰まる。心臓が勢いよく鼓動を刻み、胸が痛い。

咽び泣く陸の頭を、慰めるようにポンポンと撫でた。

「何言っているのか分からないけれど、言いたいことが有るならすぐに言ってよ…溜め込まれて、急に避けられると…困る」

弱々しい先輩の声が、間近から聞こえた。聞いている方が胸が痛くなる程、悲痛の色が滲んでいた。

「キスした事、怒ってんの?」

陸はフルフルと首を横に振る。

「…もしかして、俺の事嫌いになったとか?」

先輩の声が消えそうなほど小さくなる。
その声に陸は、はっきりと首を横に振って否定する。その逆のなのだ。好きで好きでたまらない。だから、困っている。

「そう…良かった。嫌われたのかと思ったよ…」

ぎゅうっと陸を抱きしめる腕に力が込められる。先輩の胸に頬が押し付けられて、先輩の存在を強く感じられた。嬉しかったけれど、苦しくて、先輩の胸を叩く。すると、先輩の体が離れた。息を吐き、名残惜しさが体に残る。

涙はいつの間にか止まっていた。陸の情けない顔を見て、水木先輩は優しく笑った。その目は、春の日だまりのように温かな光を湛えている。
顔を見て笑われたのは、不服だけれど、水木先輩の笑顔を見ると全て吹き飛んでしまった。

水木先輩は、陸の眦の涙を指で拭き、頬を撫でた。その手付きが宝石を触るように、恭しい。陸は擽ったさに笑った。

「なんか言うこと無い?」

蕩けそうなほど、優しい声だ。眼差しは、何かに焦がれているように熱く、陸を見下ろす。目の前にいる先輩の眼差しや声に、陸の恋心は触発され、溢れた。自分の気持ちを言うつもりは無かった。告白すれば困らせるだけだ。失うものばかりで、得るものはない。臆病な陸は告白するつもりなどなかった。だが、そんな意思よりも先輩が好きだと言う気持ちが、この瞬間何よりも勝った。2人きりの保健室で、陸の目の前には性別を超えて好意を寄せた先輩がいる。先生がいつ帰ってくるともしれない状況なのに、世界には2人しかいないと覚えるほど静かだった。己の心臓の音がはっきりと聞こえる。陸は、口を開いた。今なら言える気がする。

「先輩…俺、先輩のことが…」

陸の声は突如響いたケータイの着信音に遮られる。水木先輩は、舌打ちを二回ほどして、ケータイの電源を落とす。

「…俺のことが?」

水木先輩は真剣な目をして、陸に迫った。陸は水木先輩との距離の近さに仰け反る。呼吸が肌に掠めるほど、近くに好きな人の顔があり、陸は頭がクラクラした。

「せ、先輩…電話…」

「良いよ、あんなもの。たいした用事じゃない。…で、俺の事が?」

「でも、彼女かもしれないし…」

陸は顔を暗くしながら、弱々しく言った。やはり、河内先輩の影がチラついてしまう。水木先輩の眉間にシワが寄る。

「さっきから、よくわからない事言っているけれど、彼女ってなに?俺、彼女なんて居ないよ?」

「え…でも河内先輩が彼女じゃ…」

「はぁ?誰がそんなホラ吹いたの…まさかそんな嘘信じたの?」

責めるように睨まれて、陸はむっと口を尖らせる。

「だって、美術室で…きす…してたし…」

水木先輩は、訝しそうに眉を顰めてから、視線を上げて、記憶の糸を辿る。

「あぁ。見たの?…しつこいから黙らせるには良いかと思って…母親の会社とアイツんちの会社が取引しているから、親から適度に接するように言われてたんだよ…でもね、恋人にはちゃんと尽くすよ。浮気もしない。」

後半部分の声音は甘く溶けていた。先輩が恋人の話を振った理由は定かではないが、恋人になれる人が羨ましいなと、思う。
河内先輩との恋仲ではないと判明すると、陸が一人で突っ走っていたようにも思えた。簡単に、他人の噂を信じた陸が悪いのだが、随分頭を悩ませていた事があっさりと解決し、嬉しいのだが、どこか釈然としない。陸は、何か責める場所は無いか考える。

「…それに…秋元先輩が俺より好きかって聞いた時、うんって頷いた。後輩の俺よりしつこい河内先輩が好きなの?…」

まるで嫉妬する女性のような言葉を吐いて、陸は僅かに後悔した。しかし、水木先輩は気にした風もなく、首を傾げる。

「あーそんな事言ったけ?…考え事してたから、適当に返事してた…アイツ好きでもなんでもない。俺、こう見えて一途だよ。」

目尻を蕩けさせて、まるで陸を想うかのように見つめる。その視線の強さと、甘さに陸は勘違いしそうになる。先輩が陸のことを想ってくれているなどと、天地がひっくり返ってもありえないのに。陸は、できるだけ平然と顔を装う。今、崩れてしまったら取り返しのつかない事になりそうだ。

「へ、へぇ…誰か好きな人でも居るんですか?」

聞きたいような聞きたくないような複雑な心境で聞く。正面から先輩の返答を聞く自信がなく、顔を背けた。しかし、目を逸らすことを許さないと言わんばかりに、頬に添えられた手を顎にかけて、水木先輩の方を向かされる。
水木先輩は、陸の顔をじっと見て、嬉しそうに甘い笑みを浮かべた。その笑顔にチクリと胸が痛む。

「うん。その子は一個下で、俺の絵がすっごく好きで、美術部で、俺に飲みモノを運んできてくれる優しい子。それで…」

長い指で鼻と唇の間をトントンっと指で叩いた。その仕草に既視感を覚える。

「笑うとここに横線ができるんだ。その笑顔が好き。…でも最近避けられてて、でもそのくせ、今日は知り合いの男に笑いかけてた。そんなフラフラした所が憎たらしいけれど、かわいいって思っている。そんな子だよ。」

「それって…」

陸は言葉を失い、甘い期待に胸を高鳴らせた。天地がひっくり返ったのだろうか。水木先輩の言う人物像に酷く心辺りがあった。

「お前は、好きな人とか居るの?」

水木先輩が囁くように言う。水木先輩は陸の心臓を狂わす天才だ。
陸は、首肯し、戦慄く唇を動かす。

「…はい。」

「どんな人?」

「教えてよ」と水木先輩が甘く囁く。期待しても良いのだろうか。迷ったのは一瞬だった。陸は意を決し、水木先輩の目を見た。水木先輩は、陸を優しく見下ろしていた。

「1個上で、絵が上手で、美術部の先輩で、いつも突拍子も無い事を言い出す人。」

声が情けなく震えた。

「意地悪で、俺をよく虐めるけれど、同じくらい甘やかしてくれます。その人の浮かべる微笑が凄く好きで、いつもドキドキします。」

心臓が煩いほど高鳴り、胸が痛かった。顔が熱くなり、目が潤む。その情けない顔を見て、水木先輩は微笑み、愛しげに指で頬を撫でる。甘美な快感がチリチリと肌を焦がした。

「へーそれは知らなかった。…で俺に何か言いたいことある?」

水木先輩は巧みに誘導して、陸から言葉を引き出そうとしている。それを分かっていながら、陸は瞼を震わせ、陸の想いを口にした。

「俺、先輩のこと…好きです…」

口に出してみれば呆気なく、何故自分が尻込みしていたのか不思議なものだった。頭の端で秋元先輩の笑い顔が掠める。

すると、先輩は笑顔を濃くする。

「うん」

拒絶は無い。寧ろ、その言葉を待っていましたと言わんばかりに、水木先輩は頷いた。受け入れてもらえた事が嬉しくて、想いが湧き水のように溢れて止まらない。

「凄く凄く好きです。」

「うん。俺もだよ。陸」

陸と同じ気持ちだと水木先輩は言った。そして、初めて名前を呼ばれた。それもとびっきり優しい声で。陸は嬉しくて、また泣いてしまった。それを見て「よく泣く子だね」と陸を抱きしめて、つむじにキスを落とす。

「つむじまでかわいい。困ったね…」

全然困っていない声で、嬉しそうに水木先輩が言った。陸は顔を上げて、水木先輩の頬に手を添える。

「先輩、ちゅーしたい。」

甘える様に言うと、水木先輩は「かわいい」と言い、陸の唇に触れるだけのキスを落とした。そのキスは、震えるほど甘い。湧き上がってくる想いは、際限がなく、溺れそうだった。

処暑 綿柎開く

 

綿の実が弾けて、萼が開く頃。

コンクールに出店する絵は、着々と進んでいた。水木先輩は相変わらず、準備室に籠もりっきりだった。そんな先輩と想いが通じてからは、飲物を運ぶ係、通称ノミモノガカリに復帰した。

秋の足音が聞こえ、涼風が吹く。しかし、まだまだ暑い日差しが続いていた。

 

陸は、お茶の入ったグラス手に準備室を訪れる。コンコンと二回ノックすると、中から声が響く。

 

ドアを開けると、水木先輩が窓辺で黄昏れていた。準備室はすっかり片付いている。直ぐに帰宅できそうなほどだ。

 

「…先輩、絵の方は順調ですか?」

 

グラスを先輩に渡すと、先輩は微笑んで受け取った。先輩の笑顔は、何度見ても慣れることはなく、いちいちトキメイているのだが、それは内緒だ。

 

「ありがと。…今日は少し気分が乗らなかったんだ。俺は俺のペースでやっているからね。」

 

お茶を口に含んで、一息すると水木先輩はそう言った。陸は、内心ヒヤヒヤした。水木先輩は、他人に干渉される事を、どこか疎んでいる節があった。余計な事を聞いてしまったのかもしれないと、不安に駆られる。

 

戸惑っている陸の表情から、心を読み取った水木先輩は、笑みを深くする。

 

「別に怒っていないよ。…そうだね。少し怒っているのかもしれない。」

 

どっちなのだ、と内心ツッコミを入れながら、陸は眉を八の字にして、困惑する。陸の表情の変化を楽しそうに水木先輩は眺めた。水木先輩は、犬を呼ぶように手を動かして、陸は水木先輩に近づいた。

 

すると、水木先輩の手が伸びてきて、陸の腰を絡め取る。水木先輩が最近、よく取る行動だ。突然の接触に、顔を赤くしつつ、先輩の腕の中に大人しく収まる。

 

「…だから、お前からキスして。」

 

面白がる笑顔を見て、先輩が怒っていなのだと察する。しかし、陸にはあがなう術などなく、その気もない。

 

ドキドキと胸を高鳴らせて、ぎこちない仕草で前にかがみ、水木先輩の唇に触れるだけのキスを落とした。

 

それだけでも、陸にとっては十分なほどの接吻だ。

 

「これで良いですか…」

 

真っ赤に染まった顔を見られたくなくて、顔を背けながら言った。

 

「まぁ、いいか。」

 

笑いを含んだ声に、むっときて、陸は水木先輩を見下ろす。そこで、水木先輩のとびっきり甘い顔を目の当たりにして、陸は心臓が痛いほど跳ねた。

 

「そう言えば、もうすぐ合同報告会が有るね。」

 

「な、なんですか。それは。」

 

顔の熱が引かず、高鳴り続ける鼓動を隠し、平然を装いながら、問いを口にする。

 

「文化部の合同報告会みたいなものだよ。前に出て、自分の作品をプレゼンするの。凄く面倒くさいよ。」

 

去年の合同報告会を思い出したのか、水木先輩は渋面になる。

 

「それは大変そうですね。」

 

話を聞きながら、陸は水木先輩の顔を魅入っていた。水木先輩は、陸の視線に気づくと呆れた顔になる。

 

「お前って本当俺の顔好きだよね。もしかしてメンクイ?」

 

続けて、「アイツも顔もそこそこ整っているし…」とぶつぶつ訳のわからない事を言う。陸が先輩の顔によく見惚れている事に触れているのだろうか。陸は目を瞬かせて、首を傾げる。

 

「俺は、先輩の顔が好きなんです。他の顔は知りません。」

 

「ふーん。そうなんだ。」

 

すると、機嫌が良くなった先輩は、俺の腰をぐいっと己の方へ引き寄せた。

 

「しゃがんで。」

 

その声に甘い響きを感じ、陸は先に起こりうる熱を予期して、顔に朱色を走らせた。座っている水木先輩に合わせて、陸は膝を折る。

 

「期待した顔して…かわいい。」

 

水木先輩の唇が陸のそれと重なる。陸が先程施したキスとは比べ物にならないほど、深いキスだった。舌が陸の口内を蹂躙して、熱を暴く。息が乱れて、淫猥な音とともに、陸のか細い声が響く。最後に、水木先輩から送られてきた唾液をコクコクと飲み、リップ音と共に離れた。唾液で濡れた唇は扇情的だった。

 

惚ける陸の頬を、水木先輩の手が愛おしげに撫でる。肌から甘美な快感が広がり、陸は震えた。

 

「そろそろ次の段階に進みたいね…」

 

水木先輩が独り言のように、呟いた。陸は言葉の理解ができず、首を傾げる。水木先輩はくすくすと楽しげに笑ってから、陸の額にキスを落とした。

 

「まぁ、この生温い感じもいいけれど。」

 

穏やかな水木先輩の言葉を聞いて、「先輩が良いならそれで良いです。」と陸は言った。それに水木先輩は笑みを深くする。

 

 

なんであの平凡な男が良いんだ。

美貌を歪ませて、女は思う。

愛しいあの人を自分から奪った、あの男が憎い。

 

そもそも、最初見かけた時から気に食わなかった。決定的に憎悪を抱いたのは、祭りの日に男と愛しいあの人が座り、まるで恋人のようにキスをしていた光景を見た時だ。

 

私が、あの人の側に居るはずだったのに。私があの人の恋人だったのに。あの人からは連絡がこない。そもそも、彼が連絡を返した事がないから、今更ではある。しかし、あの男の事が気にかかる。

 

わざと仕組んで、美術室におびき出し、見せつけたのに。あの男は懲りていないようだ。全くしぶといと女は思う。

 

手入れの行き届いた爪を噛んだ。

 

気が済まない。仮に、あの人の心を奪ったのだとしても、あの平凡な男に負けるのはプライドが許さなかった。

 

ならば、どんな手を使っても、引き剥がしてやろう。

 

女は、ほくそ笑み、憎悪に満ちた双眸をきらめかせた。

 

 

その週の日曜日に、陸は水木先輩の家を訪れていた。

準備室で雑談している際に、陸がポロリと気になっている映画の話題を口にしたのだ。水木先輩は、顎に手を当てて考える素振りを見せてから、ニッコリと笑い、「じゃあ、俺の家で映画鑑賞会をする?」と提案してきた。その提案を断る理由もなく、寧ろ水木先輩の家にお邪魔できる事に、胸を高鳴らせた陸は、即座に首肯した。

 

そして、陸はレンタルショップで借りたDVDを手に、水木先輩の家を訪れたのだ。水木先輩の家を訪れるのは、恋人になってから初めてなので、陸は少し緊張した。

 

水木先輩の自室には、いつの間にか4kテレビが設置されていて、陸は驚愕に目を丸くさせる。

 

「あぁ。最近、ゲームにハマっていてね。買ったんだよ。」

 

水木先輩は、そう言いながら、DVDプレーヤーに陸が借りてきたDVDをセットする。テレビの棚には、ゲーム機が仕舞われていた。先輩が、普通の男子高校生の様にゲームをする姿が想像できずに、陸は不思議そうな顔をした。陸の中で、先輩はキャンバスに向き合ってていたり、スケッチブックに視線を落とす姿のほうが自然だ。

 

DVDプレーヤーが音を立てて、起動し、テレビの画面に映像が写る。先輩は、テレビの正面にあるローテーブルとベッドの間に腰を下ろした。どこに座ろうか、オロオロしていると、水木先輩が横のカーペットをポンポンと叩き、座るように促す。

 

「ここに座って。」

 

「…はい」

 

陸は、水木先輩と少し距離を置いて、横に腰を下ろした。

すると、腕が伸びてきて、陸の細い腰を絡め取り、水木先輩に引き寄せられる。ぴったりと肩が接触して、陸は映画どころではなかった。しかし、陸の心境とは関係なく、映画は無慈悲に進んでいく。

 

かなり気になっていた映画だけあって、隣にいる先輩の存在を気にしつつも、映画に夢中になった。

 

 

Q.なんでちゅーって言うんですか?

 

「だって、河内先輩が『キスでもいいよ』とか言ってたから…比べられたくないし、同じ言葉喋りたくない。」

 

結構、嫉妬深い陸くんでした。

 

 

完結と聞いたお二人さんの反応

 

「え?俺たちもう終わりなの?やっと両思いになれたのに…初エッチだってまだなのに…」

 

「わーわーっ先輩!!ぶっちゃけ過ぎですよ!…それに俺、男同士のやり方知らないし…」

 

「ふふっなら手とり足取り俺が教えてあげるよ。」

 

「え…先輩男としたこと有るんですか?」

 

「いいや。お前が初めてだよ。でも、調べたから大丈夫。かわいいお前と深く繋がるためにね。模擬練習では脳内でバッチリ熟したから。」

 

「う…うぅ…(俺も調べた方が良いのだろうか。)」